勝峰 昭の「神の美術」あれこれ。

キリスト教美術―スペイン・ロマネスクを中心に― AKIRA KATSUMINE

2009年06月

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ブルゴス南東50Km、有名なベネディクト派の大修道院 サント・ドミンゴ・デ・シロスのショップで、
『イスパニア・ロマネスク美術』 (勝峰昭著)の販売が開始されました。

また同大修道院の伝統ある図書館Bibliotecaに所蔵され、聖職者たち及び学者や研究者たちに閲覧も可能となりました。著者として名誉なことであり感謝しています。

本書表紙のカバー写真(折り返し部分も)は、当修道院回廊浮彫りのパネルです。

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写真:平面図および聖堂後陣と回廊全体 cKKT

 5月15日、ウエスカ市から75km一路、かの「巨岩の修道院」として有名なSan Juan de la Peñaに向かいました。途中標識に導かれて間道に逸れると、アラゴンらしい葛折れの細い山道が延々と続き、そのうち突然視界が開け、哲学者ミゲル・デ・ウナムノが1932年に記した随筆『Unamuno Ensayos I & 供戞1964年、Aguilar)さながらの情景が展開し、やがて累々とした巨岩と群生する松が見えてきました。

 9世紀に遡ると、当時パノ山に洗礼者・聖ヨハネに奉献するため小さな修道院がつくられ、小アラゴンの宗教的中心としてキリスト教徒たちがここに避難しました。イスラムに対抗する愛国心のシンボル的存在でもあったのです。クリュニー大修道院の影響を受けて1071年にローマ典礼に転換して以来、サンチョ・ラミレス王直轄の修道院となり、サンチョ・デ・アリサナ修道院長の政治手腕により、ラミロ祇い琉簑里1083年ここに埋葬されるとともに、ローマからの聖遺物を獲得するに至って格があがり、王権直轄となって所領も拡大しました。爾来15世紀と17世紀の大火により大損害をこうむったため、20世紀になって大幅に修復された経緯があります。

 柱頭彫刻については、長崎純心大学・浅野ひとみ先生の研究論文集『スペイン・ロマネスク彫刻研究』(2003年、九州大学出版会)に詳述されています。

 まず階下部分には、モサラベ様式を取り入れたイスパニア・ロマネスク美術がエキソチックに展開します。つまり台形の空間は2廊、4本の円柱によって分断された宗教会議の間で、ややせりあがる感覚で高みの後陣へ向かうモサラベ様式がとりいれられています。
 階段を上がると「貴族の墓所」となり岩壁に埋め込まれるように墓が並列する。ここからさらに上がると1094年に聖別された、盲アーチが横並びになった3祭室の聖堂(主祭室は聖ヨハネ、左右は聖ミカエルと聖クレメンテ)となり、イスパニア・ロマネスク建築の一つの典型的造形で見応えがあります。

 巨岩の下に展開する回廊は、周囲を囲む壁muro encuadradoがない、巨岩が上部を覆う自然を生かした独特な造形で、通常のベネディクト派修道院の感覚(瞑想を誘う閉鎖的空間のイメージ)からは程遠いものです。修復の跡も生々しい比較的背の低い柱columnas de medio puntoの柱頭群がやや白っぽく、明らかに修復されたと分かるようなものも一部混在し、もうひとつ12世紀の趣に水を差す嫌いがありますが、旧約聖書~新約聖書に至る多様な情景を彫りこんだ柱頭は圧巻です。ただ岩から跳ね返る湿気が気になり、経年以上に損耗が加速するのではないかと危惧されます。一本一本丁寧にカメラに収めたので、時々パソコン上で眺めています(当時のものは12世紀前半の作品)。


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写真:平面図、内部、地下祭室壁画「イエスの洗礼」


 イスパニアの5月の陽光は乾燥した空気の中で鋭く輝いていました。今回のサンティアゴ巡礼路周辺走行も、欲張った行程を組んだせいか厳しく慌しいものでした。行く道の両側に咲き乱れるAmapolaの真紅の花々が眼に滲みました。さて今度はいつ来ることができるだろうか。

 行程はバルセロナ~ソルソナ~アグラムント~トレンプ~ボイ峡谷~バルバストロ~ウエスカ~オリテ~ソリア~シロス~サグーン~レオン~ルーゴ~サンティアゴ・デ・コンポステラ。これをあちこち横道にそれて、ロマネスク美術の足跡を尋ねながら12日間で回ったのです。


 今日はピレネー・タウイからウエスカに向かう途中で立ち寄ったRoda de Isábenaという小高い山上の小村に建立された、11世紀のサン・ビセンテ大聖堂について記します:

 このような辺鄙な村に、「司教」聖ラモンが任命され「大聖堂」という格式を何故もたせたのだろうかという素朴な疑問をもちましたが、実際行ってみてそこが、創生期のアラゴン王朝にとって王国統一のための戦略的要所であったことが納得できました。

 956年にSanchoEl Mayor王の時代に起工され、その息子のSancho Ramírezが11世紀中頃に完成させました。南扉口のラッパ状逓減方式の6層のアーキボルトは重厚で、柱頭には聖書の情景(イエス・キリストの生涯=「お告げ」、「ご訪問」、「生誕」、「公現」、「エジプトへの逃避」)が展開します。彼が階段状の三つに分割された地下祭室(中央祭室は聖ラモン、北側祭室は書庫と宝物蔵所)を作らせたために、大聖堂後陣部分(三廊・三祭室)がせりあがって一見モサラベ風のような様式を思わせます。外壁は、いわゆるロンバルディア様式固有のLesena(縦型盲アーチが横に並ぶ方式)となっているロマネスクの典型例です。北側に回廊と一廊式の聖アグスティン半円形祭室が付帯しているものの、大聖堂としてはイスパニアにおける最小規模のものです。

 こういった稀有な大聖堂の造形的興味もさることながら、私はむしろ地下祭室の北側壁のロマネスク壁画「イエスの洗礼」1.0x0.7mを見たくて、ここに来ました。想像していたようにやはり色調は淡く、フランコ・ロマネスク色調です。なんだか稚拙な、普通の場合このようなフレスコ壁画においては、ロマネスク美術はこの場面の主人公であるイエスを相対的に大きく描くのですが、この場合脇役の洗礼者ヨハネと天使も負けず劣らず大きく描かれ、天使は大きな布をもって傍に控える独特な構図(ドイツAhenにあるシャルマーニュが埋葬されている大聖堂にも類似の構図の浅彫り石彫がある)です。ロマネスク美術には、このような自由闊達なものが往々にして現れます。

 われわれは、大聖堂の傍らの穴倉のようなCafé Restauranteにもぐりこみ、思い思いに田舎料理に舌鼓を打ち、postre(デザート)もそこそこに慌しくウエスカに向かいました。

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写真: (上)サン・クレメント・デ・タウイ cKKT
   (中)サン・クリメント平面図
   (下)サンタ・マリアの平面図



 5月14日、カタルーニャ・レイダ県Villamitjana村のHotel Neretzを発って、トレンプを経由して北へ一路、ピレネー山脈中腹のVall de Boiボイ峡谷に向かいました。遠くから見ると、山々の8合目ぐらいまでは雪に覆われ、朝日を浴びて黄金色に輝いていました。こんな狭い谷合にロマネスク聖堂を何故いくつも建てたのだろうかと素朴な疑問を抱きながら、タウイ周辺の教会群(Sant Feliu/Barruera, Sant Joan/Bo, Santa María/Cardet, Santa María de la Asunción/Coll, Natividad de la Virgen/Durro, Ermita de San Quirc/Durro, Santa Euralia/Erill-la-Vall, Sant Climent/Taull, Santa María/Taull, Sant Quirc/Taullなど10聖堂に及ぶ)への道標を眺めていました。この峡谷全体が世界遺産に指定されています。

 12世紀、特にレコンキスタが飛躍的に進展し始めた1118-1120年頃に、時のアラゴン王アルフォンソ武人王の思い入れと、この要求にこたえたPallars伯爵領の貴族たち、それにRoda-Barbastroの大司教聖ラモンとが熱心にボイ峡谷にまずタウイのサン・クリメントとサンタ・マリア両教会の建造を進め、これを核にボイの周辺に他の聖堂群を展開させたと資料は伝えています。

 今回はMNAC美術館蔵のかの有名な祭室壁画「Pantocrator座せる全能の神キリスト」をサン・クリメント教会、「聖母子」をサンタ・マリア教会に訪ねるのが目的でした。つまりタウイから1922年に移管されたMNACの最も著名な二つの祭室壁画の故郷を訪ねたのです。浅い霧があたりを灰色に沈め、時々細かい雨が降っていました。気温は12度ぐらいで、幾分肌寒い感じでした。

 サン・クレメント教会は1123年に建立。外気に曝されたロンバルディア様式の背の高い鐘楼が本体とは別に南東の角に付帯しています。その基台は分厚く窓が一つ、5つの盲アーチが組み込まれ、その上が5層の四角い優雅な塔となっています。聖堂の外陣外壁には軒の鋸型模様のほか一切装飾的なものはなく、また窓もありません。三組の支柱に支えられた3廊、3祭室+1小祭室といった普通のロマネスク様式です(平面図参照)。

 主祭室のMNACに移管されたオリジナル壁画と比べたらその違いが歴然で、再生画の拙劣さが分かります。一方サンタ・マリア教会(同年建立)の平面造形は、全くちぐはぐで不可解です。その構造として最も古いのは、南壁の西南側に隣接して建てられた鐘楼Campanarioで、そこから聖堂本体が徐々に立ち上がるのですが、まず西正面の壁の線が南に傾いています。しかも内部の外陣部分の各廊の幅がちぐはぐ、そして内陣部分を構成する3祭室の大きさと傾きが異なります、主祭室が西扉口から向かって左に傾いているのはよくあることですが。またこの聖堂も外陣(廊下部分)の壁には窓が開口していません。通称「牛の眼」と呼ばれる祭室に小さな窓があるに過ぎません。

 この造形は一体何に起因するのか、地形上の拘束だけというのもはっきりせず、理由が全く不祥です。とにかく機軸が定まっていないのです。現場で管理人に聴いてみましたが「それは土地の形状が傾斜地だからです」という説明でした。それも一因かもしれませんが、上記平面図をみても、建築家のcapricho型外れな自由さと気まぐれというほかありません。これもロマネスク建築の一側面なのでしょう。

 周辺は観光地化されて道路も立派に舗装、駐車場も整備され、訪れるのに便利な場所となりましたが、それだけに古の風情は薄れているのではないかと思いました。

 ボイのその他の聖堂やアラン峡谷にも行きたかったのですが、旅程の関係で割愛せざるをえませんでした。

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写真:『イスパニア・ロマネスク美術』表紙カバー cKKT

 今回の北スペイン走行は天候に恵まれ、ずいぶん日焼けをして帰ってきました。早いものでもう一週間経ち、豚インフルエンザgripe porcina潜伏期間も過ぎたので、今日から人と面と向かって話ができるようになりました。

 40年ぐらい前のことでしょうか、Asturias州の海岸Avilésにある製鉄所に仕事でたびたび行った帰りがけにOviedo市の外れの小さなロマネスク礼拝堂にふと入ったことがあります。そのときは夜半で、辺りは本当に漆黒の闇でした。くぐり扉を入ると、ろうそくの仄かな明かりの中で、地面に跪きこちらに背を向けて祈っている老婆の姿がおぼろげに目に入りました。その老婆は体を地面にこすり付けるような格好で、一心不乱にすがるように祈っていました。そのときに受けた感動は今も忘れられません。信仰というのは理屈ではない、それはただ無心に信じ祈るだけなのだと思ったのです。

 最近講演などで引用する聖書のイエスの言葉:「トマスの不信」で、蘇ったイエス・キリストが
「わたしを見たから、信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。
 Jesus le dijo:Porque me has visto, has creído;dichosos los que sin ver creyeron.」
(ヨハネによる福音書20-29)、それは信仰の原義を示した言葉といえましょう。

 5月17日(日)午後16:00頃、シロス村一番の老舗Hostal Tres Coronas にチェックインしてすぐに、前のサント・ドミンゴ大修道院の回廊に行きました。スペイン国内各地からの団体観光客、英国やドイツなどから多くの人々がグループツアーで来ていて、ガイドの説明に聞き入っていました。これまでここには2回来ていますが、いずれも幸いにも数名の人たちだけで、心ゆくまで8枚の大理石のパネルや柱頭群に見入ることができましたが、今回は満足した状態で見ることができず、雰囲気もざわついて残念でした。

 ところがこういうときにはいい事も起こるもので、帰りがけにお会いした神父様に拙著『イスパニア・ロマネスク美術』(表紙がこの大修道院の回廊パネル=「エマウスへの道」となっている)を寄贈したいと申し出たところ、同修道院のBibliotecaの蔵書にしたいと思いもよらないお言葉をいただき、たいそう名誉なことだとうれしく思いました。神父様のご判断には、日本語で書かれた本なので内容は分からないまでも、表紙がこの大修道院の回廊のパネル「エマウスへの道」、また折り返し部分に「トマスの不信」になっていること、スペイン文化省「Baltasar Gracián基金」の助成を受けたこと、および産経新聞の書評でも取り上げられた事実などが良かったでしょう。その上15冊購入したいとのご意向を承り、欣喜雀躍しました。最近日本人の来訪者が増えているのに、日本語の文献が全くおかれていないからでしょう。

 航空便で発送を終えほっとしているところです。
 この拙著の出版に関わってくださった、多くの尊敬する方々へ、このブログを借りて心から御礼を申し上げます。

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写真:正面扉口 cKKT

 ソルソナから西南へ56km、カタルーニャ自治州レイダ県アグラムントにある聖母教会はカトリック・シトー派の系統で、もう一つのフランスのクリュニー大修道院に代表されるベネディクト派とは一線を画し、どちらかといえば華美に流れず、戒律も厳しく己を律する修道士の原点に沿った考え方の宗派に属しています。従って芸術的観点からすれば地味で、建築の分野を除いては取り上げるべき対象が限定されます。

 このアグラムントの聖母教会は12世紀末起工され、13世紀中頃に聖別された3廊、3祭室で普通の後期ロマネスク聖堂ですが、目玉は西正面の造形で、それは逓減する8層ものアーキボルトに囲まれた扉口の特異な造形にあります(Léida様式)。

 私たちが現地に到着したのは5月13日の午後13:00頃で、丁度朝市が終わったばかりで残塵が未だ取り払われていませんでしたが晴天に恵まれたため、やっと上のように広角写真をとることができました。事前に書物で察していた状況とは異なり、教会の正面の空き地のスペースは小さく、すぐに道路に妨げられ家屋が後方を塞いでいるので、教会との好ましい距離が取れないため、もっと遠くから真正面の8重アーチのような簡素な幾何学的造形をカメラに取り入れることができないのが残念でした。

 一旦これらのアーキボルトの下に身を置きしばらくじっとしていると、そこは火災の真只中に居るような錯覚を覚え気分が高揚し動揺に変わります。これが表題の「ebria sobriedad陶酔的簡素」という、シトー派聖堂建築の弁証法的高揚感の演出です。信者たちは外から扉口に近づきながら、無意識にこのような状況に置かれます。この惑溺も一旦狭き門より中に入るとそこには暗闇が支配し、蝋燭のわずかな光に浮かび上がった主祭壇の聖母子像に見据えられ、恐ろしさに身がすくみ震えるような信仰の感動に打たれる。人々は無意識に跪くことになるのです。つまり「簡素な幾何学的造形と錯綜」および「炎の酩酊と暗く瞑想を誘う信仰」という二重の弁証法dialéctica的止揚を体験することになります。

 イスパニア・ロマネスク美術における聖母の像は、後のゴシック美術のような微笑を浮かべた優しい聖母ではなく、大部分の場合「神の母Teotokos」としての威厳と恐ろしさを持っています。決して像には普通の美しさはありません。

 この辺りがロマネスクの真髄といえます。イスパニア・ロマネスクの聖母は後のゴシック時代のような美しい女神のような容姿とは程遠いものがあります。ただこのアグラムントの正面扉口の中央に位置を占める聖母子像に関しては、聖母マリアの容貌は穏やかで、向かって左に「マギの礼拝」、右に「お告げ」の構図をともなっています。ロマネスク彫刻のデフォルメ的特徴を備えているものの、いずれも彫刻の線が丸みを帯び、この門が作られた13世紀前半というゴシック美術への移行期を如実に感じさせます。

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写真:(上)サン・キルセのオランテ cKKT
   (下)板絵 cKKT


 5月10日に日本を発って、いくつかハップニングがありましたが、やっとスペインから無事帰ってきました。今日からまずいくつかの今回訪れたイスパニア・ロマネスク美術の印象を記していきます。

 5月13日(水)どんよりした空模様の中を、バルセロナ・サンツ駅でレンタカーをして、一路レイダ県Solsonaに向かって西北に進みました。以前行ったことのあるCardonaの初期キリスト教聖堂Sant Vicencを左の高所に仰ぎ見ながらすり抜け、カタルーニャにしてはこの辺りは荒涼としていますが、なだらかな起伏が続く県道を110kmぐらい走り、一時間半ぐらいで最初の目的地Solsona司教座美術館Museu Diocesanoに着きました。

 この美術館はカタルーニャの三大美術館(MNACとVic)の一つで、MNACに次ぐイスパニア・ロマネスク美術品、特に1F と2F には多くの絵画の収蔵品があります。有名な初期キリスト教-ロマネスク美術、9世紀~12世紀に至る祭室壁画群(フレスコ)があり、著名なSant Pedret de Quirce教会の一見稚拙とも見える「オランテ」と「公現」などがあります。板絵antipendio o retabloも「イエス降誕」またSant Andreu de Sagás由来の著名なものなどがあります。これらのロマネスク美術論的コメントは別の機会に譲りますが、相当質の高い精神性の深い作品群(特に前者)です。

 私はここに蔵されている板絵の総体はもっと大きいものだと勝手に思っていたので(拡大した部分のみ書物で見ていた)、実物の部分は思ったより小さく感じられました。たしかにイスパニア・ロマネスク絵画における板絵の「色収差aberración cromática」(直前のブログ参照)効果を少し感じます。

 ロマネスク絵画はカタルーニャから始まり、順次西の王朝領域に伝わっていったのですが、目の当たりにするとやはりその色彩と様式にビザンチン絵画の影響(原色の鮮明な色彩、対称性、正面性など)が如実に感じられました。地勢的に言って地中海沿岸に位置する以上、ビザンチンの影響をいち早く受けるのはカタルーニャの宿命でしょう。

 ソルソナ大聖堂で、最近ブログに載せた黒い「回廊の聖母子像」の実物を見てきました。暗い側廊の1祭室にあり、あまりうまく撮影できませんでした。識者の不興を買うかもしれませんが、やはりロマネスクのものとは思えませんでした。

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