勝峰 昭の「神の美術」あれこれ。

キリスト教美術―スペイン・ロマネスクを中心に― AKIRA KATSUMINE

2012年01月

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写真: (上) トゥデラ大聖堂 柱頭
    (下) オータン ロラン美術館蔵



 「奇跡」とは“常識では考えられない神秘的な出来事。既知の自然法則を超越した不思議な現象で、宗教的真理の徴と見なされるもの”と広辞苑にある。つまりこれをキリスト教的にいえば、「下位の公理(科学)」の例外的現象である。「上位の公理」とはキリスト教の教義のことを指す。


 ロマネスク美術時代11~12世紀頃には、奇跡を行う人たちがいたことは間違いなさそうだ。何もイエスに限ったことではない、例えばシロスの大修道院長聖ドミンゴは奇跡を起こす人であったことはつとに知られている。


 最近スペインから送られてきた「ロマネスク友の会」の雑誌『ROMÁNICO』(2011年12月版)のAmaya Zardoya氏とAurelia Blázquez氏の共同寄稿文を読んだ。S.O.S.Románicoというコラムに「トゥデラ大聖堂回廊への歴史・美術的アプローチ」という題名の小論考が載っている。数枚の写真の中にトゥデラ大聖堂回廊の北廊下No.6柱頭彫刻に、聖書の一場面キリストによる死者ラザロ復活の奇跡の場面「ラザロの蘇生」が刻まれている。


 回廊は矩形で、二つの長い廊下には12のアーチ、短い方にはそれぞれ9アーチですべて半円柱が二本或は三本で各アーチを支える造形となっている。保存状態はさほど悪くないように思えるが、この状態を末永く維持していくために当該雑誌ではSOS信号を出して注意を喚起したのであろう。


 さて、問題の柱頭の一面「ラザロの蘇生」を見ると、向かって一番右がイエスで、前列右の女性がラザロの姉妹マルタとマリア、左下に死者の布に包まれたラザロが横たわっている。上段にはイエスの弟子たちがいるが、その手は涙を拭っているのではない。死臭を避けるために左掌で鼻を覆っていて、やや写実的な印象を受ける。この直後イエスはラザロを蘇らせ、奇跡は完了する。


 私はラザロの姉妹たちは、得も言われぬ悲痛な表情を浮かべ、四日前に死んだ兄弟に対峙している。こういった感覚はゴシックの足音が聞こえる頃、つまり12世紀末から13世紀初頭頃に彫られたものだと思う。



[参考]アンリ・フォション著、辻佐保子訳『ロマネスク彫刻』(中央公論、1975)に、オータンで1170-80年頃に制作され、1766年に破壊された「聖ラザロの墓」の彫刻の一部「マグダラのマリア」(写真)が載っている。これも哀悼の身振り(涙を拭う)で哀しみを表現しているのではなく、死臭を避けようとしているのである。


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『神の美術-イスパニア・ロマネスクの世界』出版記念講演会が2月16日(木)に開催されます。

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 『神の美術-イスパニア・ロマネスクの世界』出版記念講演会が開催されます。

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写真:Santo Domingo de Silos大修道院回廊


 年頭に当たって、肌に感じるうすら寒さと共に、よく訪れた西欧中世の修道院回廊の静謐感を思う:

 私は今、ロマネスク時代のイスパニアのベネディクト派の修道院回廊について一文を書き始めたが、現場を訪れそして調べれば調べるほどこの回廊という場所は波乱に富んでいて、色々な顔を見せてくれる。それは修道士たちにとって、修行と生活の場として静謐にしてまた躍動的な位置を占めている。権力への対応と財政上の問題から、世俗との関係に配慮しつつ、修道院回廊は生臭い一面も見せる。


 その機能を私なりに順不同に羅列すれば次のようになるだろう:

     ・瞑想に耽る場所
     ・散策の場所
     ・毎日の労働の準備をする場所
     ・通路(聖堂、食堂など各施設間の通行路) 
     ・使徒的在り方を自省し、教義に触れる場所  
     ・典礼を行う場所(四旬節、5月聖母マリア祝祭など季節的行事)
     ・祭事(洗足を行い、行列で繞る)を行う場所
     ・埋葬(特定の人)    など。

       
 回廊のもつ意味とは何か、一言でいえばそれは「多機能性polifuncionalidad」ということになるだろう。これらのそれぞれに対して修道士たちがどのように振る舞ったのだろうか、このあたりの風景がJ.Yarza Luaces, G.Boto Varela編『Claustros románicos hispanos』Edilesa,2003に11人の現在のスペイン・ロマネスク美術の碩学たちの手で描かれている。

 その中に「La polifuncionalidad de un espacio restringido制限された空間の多機能性」という論文がFrancesca Español Bertran女史によって発表されているが、修道院回廊の多機能性に関する広範で鋭利な記述は啓蒙的である。私は20頁にわたる邦訳を終えたばかりだが、この問題に対する女史の記述は生々しく、現場に立った者にしか分からない臨場感を感じさせる総論的な論文である。 


 特筆しておきたいのは、上記の如く回廊がもつ様々な機能の内で、典礼のもつ意義である。それは主の威厳について、修道士たちがどのようにそれを認識しそして表出したかを考えると、典礼の創出ということが重要な意味をもってくる。つまり、典礼は祭儀の執行としての不可欠な形式の具備であり、この儀式の一部が回廊で行われていた、そして現在も行われている。


 何度行っても、あの静謐な霊的空間のもつ、染み入るような感慨は例えようもない。

 
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