写真:
「市川蝦蔵(五代目団十郎)の竹村定之進」
「三世大谷鬼次の奴江戸兵衛」
「San Lorenzo de Uncastilloの柱頭」
何年前だったか…出身大学の同窓会から講演を頼まれて「写楽とロマネスク」のことを話題にしたことがある。忘却したが、このブログでも一度話題にしたことがあったかもしれない。
写楽という江戸時代の伝説的人物の存在は、世界の人々の関心を集めてきた。私にとって彼の役者絵(半身図)28枚は魅力的で好きである、背景は凡て重厚な黒雲母摺りだが、中でも著名な一つは「市川蝦蔵(五代目団十郎)の竹村定之進」と、もう一枚の「奴の江戸兵衛こと大谷鬼次」が秀逸だと思っている。
三年ほど前、小林祐作『美醜を分ける』(新興出版社、1971)という古めいた箱入りの本を確か新橋の古書市で見つけ書棚に積んであったので、論文執筆で忙しい今日この頃、息抜きの一時何気なく再び眺めてみた。
写楽は今でこそ日本のみならず世界中で高い評価を得ているようだが、恐らくゴッホが浮世絵に惚れ込んで,自分の住み処に飾って眺めていたというから、それだけでも昔から写楽の評価は定まっていたのかも知れない。
しかし写楽が役者絵師として世に在った期間は同書による、僅かに一年にも充たないものだったらしい。
それでも、当時で云えば奇妙な絵を支えてくれた人がいた。
それは当時著名な版元蔦屋重三郎であり、彼は歌麿をも世に出した男でもある。
とにかく自分が誰かに見いだされると言うことは僥倖そのもので、その人にとって画期的な未来が開ける可能性があると言っても過言ではない。
そのような写楽(能楽役者出身?)の絵―妖しいまでの美しさと醜さが溶け合って、美しさに醜さが紛れて蔭となり、醜さに蠱惑的な魅力が伴っている―当時の江戸の人たちには受け入れられずにいたのを、ドイツ人の美術史家クルト博士が絶賛し、写楽をレンブラントやベラスケスにも比肩する画家だと賞賛したという。
前者の絵(竹村定之進)は“上がった眉にあぐらをかいた獅子鼻、両肩に漲った豊かな幅、見開いた生色溢れるまなこ,ひきゆがめられて結んだ口端に覗く二枚の歯、顴骨から大胆に抉って流れる輪郭線は豊かに受ける顎の線と相まって大役者を写して余すところがない”(上記書から引用)。
後者の「奴の江戸兵衛」を演ずる大谷鬼次の絵は、“その懐からぐいと突き出した歪んでのびた左手、蛙の吸盤を思わせるような力の入った右手の指…”デフォルメであるが、造作は別において、写楽の主観に投じ心が捉えた抽象的造形であろう…と講演で語ったことを思い出している。
この辺りの心根や手法がスペイン・ロマネスク回廊や聖堂内部にある柱頭群、壁また持ち送りなどに見られる大袈裟な、今時の言葉で言えば“表現主義的な抽象性”やデフォルメと重なるものを私は感じるのである。
勿論時代は互いに数百年もの乖離があるのだが。
ここをクリック↓すると、
にほんブログ村の哲学・思想ブログ・カトリックのランキングサイトが見ることができます。
[https://philosophy.blogmura.com/catholic/ にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ(文字をクリック)]
「市川蝦蔵(五代目団十郎)の竹村定之進」
「三世大谷鬼次の奴江戸兵衛」
「San Lorenzo de Uncastilloの柱頭」
何年前だったか…出身大学の同窓会から講演を頼まれて「写楽とロマネスク」のことを話題にしたことがある。忘却したが、このブログでも一度話題にしたことがあったかもしれない。
写楽という江戸時代の伝説的人物の存在は、世界の人々の関心を集めてきた。私にとって彼の役者絵(半身図)28枚は魅力的で好きである、背景は凡て重厚な黒雲母摺りだが、中でも著名な一つは「市川蝦蔵(五代目団十郎)の竹村定之進」と、もう一枚の「奴の江戸兵衛こと大谷鬼次」が秀逸だと思っている。
三年ほど前、小林祐作『美醜を分ける』(新興出版社、1971)という古めいた箱入りの本を確か新橋の古書市で見つけ書棚に積んであったので、論文執筆で忙しい今日この頃、息抜きの一時何気なく再び眺めてみた。
写楽は今でこそ日本のみならず世界中で高い評価を得ているようだが、恐らくゴッホが浮世絵に惚れ込んで,自分の住み処に飾って眺めていたというから、それだけでも昔から写楽の評価は定まっていたのかも知れない。
しかし写楽が役者絵師として世に在った期間は同書による、僅かに一年にも充たないものだったらしい。
それでも、当時で云えば奇妙な絵を支えてくれた人がいた。
それは当時著名な版元蔦屋重三郎であり、彼は歌麿をも世に出した男でもある。
とにかく自分が誰かに見いだされると言うことは僥倖そのもので、その人にとって画期的な未来が開ける可能性があると言っても過言ではない。
そのような写楽(能楽役者出身?)の絵―妖しいまでの美しさと醜さが溶け合って、美しさに醜さが紛れて蔭となり、醜さに蠱惑的な魅力が伴っている―当時の江戸の人たちには受け入れられずにいたのを、ドイツ人の美術史家クルト博士が絶賛し、写楽をレンブラントやベラスケスにも比肩する画家だと賞賛したという。
前者の絵(竹村定之進)は“上がった眉にあぐらをかいた獅子鼻、両肩に漲った豊かな幅、見開いた生色溢れるまなこ,ひきゆがめられて結んだ口端に覗く二枚の歯、顴骨から大胆に抉って流れる輪郭線は豊かに受ける顎の線と相まって大役者を写して余すところがない”(上記書から引用)。
後者の「奴の江戸兵衛」を演ずる大谷鬼次の絵は、“その懐からぐいと突き出した歪んでのびた左手、蛙の吸盤を思わせるような力の入った右手の指…”デフォルメであるが、造作は別において、写楽の主観に投じ心が捉えた抽象的造形であろう…と講演で語ったことを思い出している。
この辺りの心根や手法がスペイン・ロマネスク回廊や聖堂内部にある柱頭群、壁また持ち送りなどに見られる大袈裟な、今時の言葉で言えば“表現主義的な抽象性”やデフォルメと重なるものを私は感じるのである。
勿論時代は互いに数百年もの乖離があるのだが。
ここをクリック↓すると、
にほんブログ村の哲学・思想ブログ・カトリックのランキングサイトが見ることができます。
[https://philosophy.blogmura.com/catholic/ にほんブログ村 哲学・思想ブログ カトリックへ(文字をクリック)]