勝峰 昭の「神の美術」あれこれ。

キリスト教美術―スペイン・ロマネスクを中心に― AKIRA KATSUMINE

2016年05月

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 新潮社 『太宰治集』 より
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〝ROMÁNICO 20" Santa María de Uncastillo
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 今回は太宰治(190948)を取り上げてみましょう。
 
 私は太宰の小説を初めて読んだのは大学二年生の夏休みで、岐阜県多治見市の実家に帰省していた時でした。

筆者である「私」が、ある男の手記を紹介する体裁をとった代表作『人間失格』(Human Lost)の読後感は畢竟侘しいものでした。

彼は津軽の大地主の六男に生まれ、秀才とうたわれながら左翼運動に加わって挫折、楽物中毒になり、虚実織り交ぜた人生を無頼に送り、最後はそう好きでもない女を道ずれに多摩川上水に入水自殺しています。
 

ずいぶん年月が経って、1999年に太宰の全作品153篇を一冊にまとめた『ザ・太宰治』を買い求め、今も本棚にありますが、その中に「ロマネスク」という小品(1934年同人雑誌12月号「青い花」に掲載)が収録されています。

たまたま手持ちの奥野健夫著『太宰治』(文春・1975)に、

≪「ロマネスク」なども、滑稽な出鱈目に満ち満ちていますが、これは、すこし、すさんでいますから、あまりおすすめできませんと後に語っているが、太宰治の奔放な才能をいかんなく発揮した初期の傑作である―中略―リアリズム万能の当時の純文学意識を破った太宰の天才ぶりを改めて認識できる。≫と述べています。



また猪瀬直樹著『太宰治伝―ピカレスク』(小学館・2001)に、

≪沼津郊外の静浦村の造り酒屋で静養した折、そこの主人坂部啓次郎の弟坂部武郎と馬が合った。武郎は三歳年下の妹愛子と三島に酒屋の支店を出したと連絡してきた。やるぞ、やるぞ。内心で叫び、息巻いて、真夏、三島へ行く決心をする≫。

次いで、≪同人雑誌『青い花』を発刊するための会合で,修二(筆者注:津島修二=太宰のこと)は三島で書いた「ロマネスク」をすでに用意してあり、意気込んで乗り込んだ。だが、初会合は大荒れに荒れた≫。

さらに、芥川賞規定の期間昭和十年一月号より六月号までの各新聞雑誌発表の作品との定めに合わず、
≪三島で書いた渾身の作品「ロマネスク」はすでに『青い花』に乗せてしまった≫とあります。

これらの記述から見ると太宰は短編「ロマネスク」を真面目に書いたようです。
 


彼についての書物は数多く刊行されていますが、太宰がこの作品に「ロマネスク」というタイトルを何故つけかについて寸評でもまだお目にかかったことはありません。
内容は奇異な物語ですが、ロマネスク美術愛好者にとっては少々気がひかれるタイトルです。
 


私が随意に短く要約しますと;
«津軽の国に庄屋で鍬形惣助という男の初めての男の子太郎は、生まれるとすぐ大きいあくびをした。やることなすことが変わっていて、予言能力も備えた子であった。生来の怠け者だったが、村を襲うことになる洪水を予言するような言動をしたり、お殿様を恐れもせず直訴したりして、村を救うこともしたが、所詮惣助の阿呆様であった。蔵に入り込み、仙術の本を見つけ一年ほど蔵の中で修行して、ネズミと鷲と蛇になるほうも会得した。太郎は十六歳で隣の油屋の娘に恋をし、ネズミや蛇に変身しその娘の笛の音を聞くことを好んだ。そして自分の仙術でもって、良い男になるように念じはじめ、十日目にその念願を成就することができ、その出来栄えを鏡の中に確かめた。驚いたことに色がぬけるように白く、頬はしもぶくれでもち肌、眼はあくまでも細く、口髭がたらりと生えていた。天平時代の仏像の顔のようで、股間の逸物までだらりとふやけていたのである。仙術の本が古すぎたのであった。大変落胆した太郎は元に戻るべく苦労したが駄目だった。蔵からむなしく出てきた太郎は、開いた口のふさがらずにいる両親に一部始終の訳を明かしたが、恥ずかしくて村に居続けることもできず、飄然と旅に出た。満月の輪郭が潤んでいるのは彼の眼のせいであった。彼はぼんやり立ったままで、面白くもない、面白くもないという呪文を何百ぺんもくりかえし低音でとなえ無我の境地に入り込んだ。それが太郎の仙術の奥義であった。»


これだけです。さて皆さま、太宰が何故この小品に「ロマネスク」という題をつけ、何を言わんとしたのでしょうか、ご自分なりに推察してみてください。
 

抽象や仮象といった芸術感覚、就中美醜(デフォルメ―醜美)などロマネスク独自の内面的、感性的要素に留意しながら推理すると、いくぶんでも太宰の心が読めるでしょう、芥川臭い感じがしますが。
 


[参考]1958年雑誌『新潮』に掲載された坂口安吾の評論
   「不良少年とキリスト-太宰治」に
    太宰について下記のような記述があります:

   «芥川も、太宰も、不良少年の自殺であった。不良少年の中でも、特別、弱虫、泣き虫小僧であったのである。腕力じゃ勝てない。理屈でも、勝てない。そこで、何か、ひきあいを出して、その権威によって、自己主張をする。芥川も、太宰も、キリストをひきあいに出した。弱虫の泣き虫小僧の不良少年の手である。
   ドストエフスキーになると、不良少年でも、ガキ大将の腕っ節があった。奴ぐらいの腕っ節になると、キリストだの何だのヒキアイに出さぬ。自分がキリストになる。»(原文通り)

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写真 : 芥川龍之介全集 第一巻 (岩波書店)より






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写真:「復活の証」 シロス回廊


 これまでのブログで「哲学するロマネスク」と題して小文(1~4)を掲載しましたが、ちょっと中休みをして今回は「文学するロマネスク」と名付け、現代日本文学の巨匠たちの文章の中で、三回にわたりロマネスクの琴線に触れるような題材を取り上げたいと思います。

 私事で恐縮ですが、亡父が芥川龍之介全集を書斎の本棚を飾っていたので、私は子供の頃から芥川を身近に感じていました。

周知の如く、彼は母親が狂気気味で、そのために自分もいつかそうなるのではないかと自らの人生に“ぼんやりとした不安”を感じながら創作を続けていたようです。

彼は持ち前のややきざとも感じられる自尊心の高さと、天才のみがもつ非凡な能力、どちらかといえば“核は抒情的”(江藤淳の表現)、がそこかしこに散りばめられた、独特な文章を書く人でした。

この非凡な資質と不安が交錯し苛まれながら、芥川は未だ若くして自殺するわけですが、死ぬ前に小文「続・西方の人」を書いています。

そこで彼は次のように言っています:
 
<クリストは彼の弟子たちに「わたしは誰か?」と問ひかけている。この問いに答へることは困難ではない。彼はジャアナリストであると共に、ジャアナリズムの中の人物―或は「比喩」と呼ばれている短編小説の作者だったと共に「新約全書」と呼ばれている小説的伝記の主人公だったのである云々。>

(原文通りー高橋勇夫著『詭弁的精神の系譜』彩流社、2007より引用)
 

この一文は、キリストに対する芥川自身の本質的想いとは異なり、キリストの名を騙ったにすぎないと思います。
この場合キリストを自分自身と重ね、捻ったと推察します。
 

新約聖書「マタイによる福音書1128節」にあるように、“すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう”とイエスは云われました。

芥川は晩年、自分は疲れているのだから信じたい、信じることで救われたい、けれどもどうしても信じられない...彼のこういった悲痛な叫びをあげているように思える詩が、小文「河童」にあります:
 
     <椰子の花や竹の中に 仏陀はとうに眠っている。
      道ばたに枯れた無花果と一しょに 基督ももう死んだらしい。
      しかし我々は休まねばならぬ たとひ芝居の背景の前にも。>
      
    *日本文学研究資料叢書―『芥川龍之介Ⅰ』有精堂、S60(関口安義)
 
上記の書は既述の「続・西方の人」と題する、同じく晩年の芥川の小文とも重なりますが、彼は自殺するまで結局信仰を得ることがなく孤独に旅立ったのです。
  
     
また彼は芸術に対して「侏儒の言葉」で次のように言っています:
<芸術は女と同様に、最も美しく見える為には一時代の精神的雰囲気或は流行に包まれなければならぬ。>
 
これは芥川らしくもありません。
確かに上記の高橋勇夫が評論で云うように、私小説へ落ちてゆく感じがします。
しかしこれを芥川の成長の系譜の節目と捕えることもできるかもしれません。


高橋勇夫は更に云う:
<芥川龍之介が意識的に生きたいと思った「人生」は、「芸術家の人生」以外の「人生」ではなかった。表現する自己、或いは、表現している自分の手つきと顔つきへの浅い陶酔と深い苛立ちが、芥川の“芸術的”関心のほとんど全てであった。>云々。
 

先日、ある古書即売会で偶然『芥川龍之介未定稿集』という岩波書店が昭和43年に刊行した芥川の未発表未定稿の小文ばかりを集め編集された663頁の分厚い本を求めました。

その中に「キリストに関する断片」という小稿が収録されています。
冒頭に編者蔓巻義敏氏の解説があり(原文の意味を尊重しながら私が要約した)、
<芥川がはじめて「新旧両約聖書」を熟読した大正三年頃のものと思われる。彼は就寝前に寝床に入ってから少しでも読書しながら眠りにつく習慣をもっていた。聖書もその対象であったようだが、感傷的になるのはあまり意味がない。との評を載せています。
 

それらのいくつかの小稿をここで引用することは致しませんが、芥川のキリスト感の一端が窺えます。

私は上記の小文を眼にした直後、芥川が世の脚光を浴びだした頃に、西欧中世のロマネスク美術の中のキリスト、中でも当時の西欧で燦然と輝いていた「サント・ドミンゴ・デ・シロス大修道院の回廊」に彫られたキリスト像などを見せたかったとつくづく思いました。
彼は、回廊の北西の隅に彫られた浅浮彫パネル「トマスの不信」、「エマウスへの道」に非常な感動を覚え、またかの柱頭群の怪獣たちにのめり込んだに違いないことでしょう。
それこそ彼のこの世の「生存への不安」(ぼんやりとした不安)に、決定的な衝撃を与えたに違いない。
彼はきっと信仰の本質(絶対性)と高位の教義に感動し、そしてすくみ、それにもまして怪獣たちに本心を見抜かれることを怖れたに違いないでしょう。

私は真実、芥川龍之介にシロスの回廊を文学してほしかったとつくづく思いながら、今も彼の文を眺めています。




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