写真:・Miñon, 聖堂外壁持ち送り、「楽師たち」
(『Vida y Muerte en el Monasterio Románico』 より)
写真:川上澄生「初夏の風」 (日経新聞2015.02.16)
今回は「詩心」という想いを拡散してみたくなりました。
「詩魂」とは詩をつくる心とか詩情に彷徨うことを云うのかもしれません。
数年前に栃木県鹿沼市にある川上澄生美術館に足利市の親友で美術収集家の田部井勝弘・版画家の佳子夫妻に連れて行っていただいたことがあります。
昨今日経新聞の切り抜きを整理していたとき、二年前の記事で、偶々この詩人木版画家・川上澄生の初期の代表作「初夏の風」がこのような姿で目に飛び込んできました。
絵自体に書きこまれている彼の素朴な詩が美しく心に響いたのでここに引用しましょう:
“かぜとなりたや/はつなつの/かぜとなりたや/
かのひとのまえにはだかり/かのひとのうしろよりふく/
はつなつの はつなつの/かぜとなりたや
詩はひらがなで画面に彫りこまれ、絵と混然一体となっていて、彼の女性への思いが新鮮に伝わってきます。
棟方志功はこの作品を見て感激し、版画家になることを決意したといわれています。
ロマネスク病の私の悪い癖で、イスパニア・ロマネスク美術に「詩魂」、せめて「詩情」というものがあるのだろうかと考えてしまいました…結論的に言えば正しくあるのです。この時代は所謂吟遊詩人が裏通りを歩いていたのですから。
川上澄生の初期の木版画に伴う田園詩ともいうべきものは、純真な人間の稚拙な童心から、詩魂が自然に発したもの。
こういった無垢ともいえる童心の発露が、確かにロマネスクと似通っているように思えるのです。イスパニア・ロマネスク(特にカタルーニャ地方L‘Estany修道院)の田園の修道院の柱頭の世俗的情景、また持ち送りに刻まれた楽師たちの哀愁に満ちた童顔の彫り物(カスティーリャ地方Miñon修道院)などの「心」は詩魂といえるのではないでしょうか。
2017.04.20