勝峰 昭の「神の美術」あれこれ。

キリスト教美術―スペイン・ロマネスクを中心に― AKIRA KATSUMINE

2017年04月

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写真:・Miñon, 聖堂外壁持ち送り、「楽師たち」 
Vida y Muerte en el Monasterio Románico より)
        


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写真:川上澄生「初夏の風」 (日経新聞2015.02.16



 今回は「詩心」という想いを拡散してみたくなりました。
 
「詩魂」とは詩をつくる心とか詩情に彷徨うことを云うのかもしれません。
 
数年前に栃木県鹿沼市にある川上澄生美術館に足利市の親友で美術収集家の田部井勝弘・版画家の佳子夫妻に連れて行っていただいたことがあります。
 
昨今日経新聞の切り抜きを整理していたとき、二年前の記事で、偶々この詩人木版画家・川上澄生の初期の代表作「初夏の風」がこのような姿で目に飛び込んできました。

 
絵自体に書きこまれている彼の素朴な詩が美しく心に響いたのでここに引用しましょう:
 
     “かぜとなりたや/はつなつの/かぜとなりたや/
            かのひとのまえにはだかり/かのひとのうしろよりふく/
            はつなつの はつなつの/かぜとなりたや
 
 詩はひらがなで画面に彫りこまれ、絵と混然一体となっていて、彼の女性への思いが新鮮に伝わってきます。

 棟方志功はこの作品を見て感激し、版画家になることを決意したといわれています。
 

 ロマネスク病の私の悪い癖で、イスパニア・ロマネスク美術に「詩魂」、せめて「詩情」というものがあるのだろうかと考えてしまいました結論的に言えば正しくあるのです。この時代は所謂吟遊詩人が裏通りを歩いていたのですから。
 

川上澄生の初期の木版画に伴う田園詩ともいうべきものは、純真な人間の稚拙な童心から、詩魂が自然に発したもの。

こういった無垢ともいえる童心の発露が、確かにロマネスクと似通っているように思えるのです。イスパニア・ロマネスク(特にカタルーニャ地方LEstany修道院)の田園の修道院の柱頭の世俗的情景、また持ち送りに刻まれた楽師たちの哀愁に満ちた童顔の彫り物(カスティーリャ地方Miñon修道院)などの「心」は詩魂といえるのではないでしょうか。
 
2017.04.20


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写真GUÍAVISUAL D’ART ROMÁNICO DEL MNAC より



 初期キリスト教時代から「殉教」即ち信仰を貫いて死を受容することが、キリスト教にとってどのような価値をもち、あるいはどのような意味があるのか、ということについて正当な知識を得たいと以前から思っていました。

 殉教者は西欧の中世時代には、信仰を全うした人として貴ばれ、聖人の位を受けるほど最高の義人であると考えられていました。
 

 キリスト教的に「殉教の絶対性」は、私の見解では次の聖書の文言の中にあると考えます:

 

・「わたしの後に従いなさい。自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」

 

       ---マタイ103739

           [私注]聖書によっては表現が異なる場合がある。

 

 

 たとえ殺されようと信仰を曲げない、志を全うするということに人間は大きな意味や価値を見出していたことは、古今東西の歴史で明らかであり、極めて固い信仰に徹して死をも辞さぬことに高い価値があったのでしょう。しかし私自身は少々心に引っかかるものを感じていました。

 

今年(2017年)全国で順次上映されている映画「沈黙-サイレンス-」で昨今また注目されている、キリスト者である遠藤周作著『沈黙』があります。

キリストの慈悲というべきか、秀吉の情け容赦なき‟キリシタン狩り“の犠牲になった長崎の信者たち悪名高い「踏絵」の犠牲になり最後まで信仰を棄てなかった信者たちの他、一人にキリストが<踏むがいい >と語りかけ死を回避させた話が展開し、感動的です。作家はこの方がキリストの無限の愛を感じたからでしょう。皮肉な見方をすれば、時代のせいかもしれません。

 

 殉教に絡む価値観、宗教観の問題は、夫々の考え方や信仰の度合い次第だと思いますが、ここではロマネスク絵画における殉教の場面を載せておきましょう。

 現在国立カタルーニャ美術館に蔵されている祭壇前飾り
Frontalde San Quírico ySanta Julita(聖キリコと聖女フリータ)
100x120㎝、の一部です。

 

イスパニア・ロマネスク手法では、このような祭壇前飾りは、当時世俗の信者たちはほとんど文盲であったため、眼に映り易いように極彩色でしかも殉教の場合は極めて凄惨に描き殊更強く印象付け、逆境にあっても信仰を捨てない尊さを教えています。

2017.04.05





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