勝峰 昭の「神の美術」あれこれ。

キリスト教美術―スペイン・ロマネスクを中心に― AKIRA KATSUMINE

2018年12月

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ドニャ・サンチャの棺の一面 (12世紀)
         (Monasteriode Santa Cruz (Benedictinas).Jaca.
 

彫刻手法には、複雑な三次元の表象をまとまりのある像の表象に変えるという課題が一部与えられています。

これを解決しようと思うと、対象の「面」としての作用と包括的な「奥行」表象とを対置する必要があります。

この問題を解決して単純明快な容量の表象を獲得し、奥行き方向への展開の出発点をもつのです。

その後、対象となるものを、背後の奥行の厚みがどこも等しい一枚の層をなす面の形で完成させるわけです。

結局この表象方式は、三次元的な表象をまとまりのある視覚印象に結びつけようとすると、必然的にそうなり、それは形がどうであれ、三次元的なものを芸術的(彫刻的また絵画的)に造形しようとすれば必ずそうせざるを得ません。

その形が単純であろうと、たくさんの形が集まって一つの全体となっていようと同じ事です。


 
 これは普遍的なことで、例えばギリシャ美術の浮彫風の表象方式もそういうことです。

 つまり幾重にも屈折した動きを見せる“見る活動”の重心と安定した関係を見出すことにより可能となるわけです。

 最終的には「調和の作用」で、形が完成するのです。
 


浮き彫りには、ロマネスク固有の「浅浮き彫り」からゴシックの「高浮き彫り」(深浮き彫り)まで様々な段階があります。

一番重要なことは、面の均等な作用を強く表現することです。

つまり描写すべき最重要な要素を同じ面の上に揃えることで、面の独自な印象を生み出さなければなりません。

しかしどこかが際立って突出しすぎると非芸術的な結果を招き、本来の距離感の手前にそれが現れ、包括的な奥行運動が阻害され、全体の印象からはみだされてしまうため、手前から奥への読み取りが不可能となります。

つまり一様な奥行運動は、均等化された奥行量の作用によって生じるからです。

ここに「基底面」(背景といってもいい)の必要性があり、それが浅くなるか深くなるかは上に置かれた主要面(手前の面)次第となります。
 


ロマネスク固有の「浅浮彫り」以外の像的表現は、「モーセの十戒」による三次元像の絶対忌避、つまり当時のキリスト教の不可避的要請によるものでありやむを得ないことですが、これに加え彫刻技術的に見た場合、浮彫りが浅いか深いかは対象の配置に左右されることもあります。

つまり浅い浮彫はいたるところで光を受け入れざるを得ないため、それに耐えうる情景に限定されるからです。

要するに、浅浮彫りは絵の場合と同じように、構想と配置によって決定されることになります。

逆に深い浮彫りは、影の効果を計算することが必要です。
 


 云うまでもないことですが、私たちがロマネスクの二次元的な彫刻物に対峙するとき、留意すべきは可能な限り真正面から観るよう心がけることです。

 これは絵画の鑑賞法と同じことです。
 
 
   参考文献:ハーバード・リード『彫刻とは何か』日貿出版社、ほか  

2018.12.20
 


 
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オディロン・ルドン  「キリスト」
 

粟津則雄『美との対話-わたしの空想美術館』(20147月刊行)という書は、心惹かれた様々な年代の作品群に対する感想・評論が、600頁に亘り網羅的に掲載されています。
 

私にとって、その第16室のオディロン・ルドン(1840-1916)が描いた「キリスト」(1887年制作)が印象に残った一つです。

彼はボルドーに生まれ、その景色と同じように荒涼とした陰鬱な、動作の緩慢な育ちを表すような彼の作風は、言いようもない侘しさを感じさせますが、このキリスト像もそういったものの一つで、確かに一風変わっています。
 

ここに載せたのは、紙に描かれたリトグラフ、3327㎝、粟津先生の所有のものです:
 
マラルメがいう<「緋のような堂々たる黒」と、「青白さのない白」>。茨の冠を被っているので、キリストであることが辛うじてわかります。

異様に大きい眼は、ルドン特有のものですが、彼の偏執のようなもので、特徴的です。

粟津先生はこれを“伝統的なキリスト像を踏まえていながらも、いま一方であの『荒れ地』の住民たちの表情やまなざしをおのずから連想させる”と言っておられます。

つまり宗教的というよりも生の根源に連なるようなという心象を言っておられるのでしょう。

 
私も足掛け十年以上もイスパニアに住んでいて感じたことですが、とにかくヨーロッパの人たちには、キリストとキリスト教が体の真の髄までしみこんでいる感じがします。

なにもかも「キリスト化」してしまうからです。然しその造形は時代により異なり、イスパニア・ロマネスクのキリストの容貌の造形は、基本的に神への恐れを感じさせる何かが内在します。

ルドンのようにそれは贖罪をする神の子の「崇高」という観念であり、威厳に満ちまた静謐な感じであって正に神の子のものであり、後の時代のような愛に満ちた優しい容貌のものは微塵も見当たりません。

この辺りは、まことにまことにロマネスクそのものではないかと思います。
 
2018.12.05

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