私は生来本好きだったのかもしれません。
亡父がそうで、家の書斎には大きな本箱がでんと座っていて、漱石全集、芥川全集そして厨川白村集などがぎっしり詰まっていました。
小学校から帰ると直ぐに本箱の有る書斎の机に鞄を放り投げ、一息ついたものです。
それらの全集の斑な赤や黒っぽい背表紙が何となく優しく私を迎えていてくれるような気がして、それらの本の中味は何が書いてあるのだろうかと微かな興味を覚えながら眺めていたものです。
元々本箱なるものは、家の主要な装飾の一つであり、知性の一端でもあります。
母親が陸軍病院で仕事をしていたので、日中は大体一人のことが多く、勢い本箱の前に座っていることが多かったのです。
米寿に近くなった今でも、大きな本箱が机の右側に沿うように置かれ、種々雑多な本が犇めいています。
何となくこれらの本たちが順番待ちをしているようで、聊か圧迫感も感じます。
今朝は近所の図書館に、借りた三冊の本を返しに行って、次いで井波律子著『書物の愉しみ』(岩波書店)を借りてきました。
ぱらぱら頁を捲ると著者は相当な数の本を読んで来られた方で、特に中国に強くその書評は面白く拝読しました。
この本は521頁もあり、部分的には拾い読みになりましたが、特にこの本のように“書評”となるとなまじっかの読書量ではここまではこなせないでしょう。
私は60代後半の2000年にあるきっかけから、「イスパニア・ロマネスク美術」に関わる書物(ほとんどイスパニア語の書籍)を手当たり次第に選んで読み漁り続けました。
その結果が著作物として二冊の本にまとめ出版の運びとなりました。
2008年から現在まで三省堂書店神保町本店で販売されていますが、有難いことにこの手の芸術書は今でも精彩を放っています。
講演などでは「自分は書かされたのだ」と語っています。
神の意志が私を突き動かしたのだと信じています。
美術にはそれまで全く素人の私があれだけの神の美術書を書けるはずがありません。
「書いたのではない、目に見えぬ存在に書かされたのだ」とつくづく思います。
尊い経験でした。
20190820