三島は20代に船旅で初めての世界旅行をしています。
1957年(昭和32年)12月、ニューヨーク、ロスアンジェルス、サンフランシスコからマドリッド(地名は原文のまま)を訪れた回想録が『三島由紀夫紀行文集』(佐藤秀明編、岩波文庫、2018年)にまとまっています。
旅先の体験を明晰、清新な文章にしていて、彼の青年時代の豊かで奔放な感受性が窺え、編者がおっしゃるように総じて的確で独創的です。
以下一部引用(原文通り):
<マドリッドの冬かなり寒い。―中略―ここの新年を迎えるけしきは、気候こそ寒いが、全く南国風で、スペイン女の肩掛けのかげにのぞく黒い瞳も、寒さをすっかり忘れさせてくれるのである。>
このように三島は繊細な感受性の一端を垣間見せてくれます。
私事ですが商社時代マドリードに1963年(当時30歳)から8年間を第一回目の駐在をしました。
何とも良き時代で、三島の感受性に響いただろう当時のマドリードの風景を思い出します。
三島はローマからニューヨークに向かい「ミュージアム・オフ・モダン・アート」を観に行って「ゲルニカ」と対面するのですが、その時の印象を次のように語っています。
少々長いですが、三島の独特なゲルニカ観を引用してみます:
<白と黒と灰色いて鼠がかった緑ぐらいが、ゲルニカ画中で私の記憶している色である。
色彩はこれほど淡泊であり、画面の印象はむしろ古典的である。
静的である。
何ら直接の血なまぐささは感じられない。
画材はもちろん阿鼻叫喚そのものだが、とらえられた苦悶の瞬間は甚だ静粛である。
希臘彫刻の「ニオペの娘」は、背中に神の矢をうけながら、その表情は甚だ静かで、湖のような苦悶の節度をたたえて、見る人の心を動かすことが却って大である。
ピカソは同じ効果を狙ったのであろうか?
「ゲルニカ」の静けさは同じものではない。
ここでは表情自体はあらわで、苦痛の歪みは極度に達しているのである。
その苦痛の緩和が静けさを生み出しているのである。
「ゲルニカ」は苦痛の詩というよりは、苦痛の不可能の領域がその画面の詩を生み出している。
一定以上の苦痛が表現不可能のものであること、どんな表情の最大限の歪みも、どんな阿鼻叫喚も、どんな訴えも、どんな涙も、どんな狂的な笑いも、その苦痛を表現するに足りないこと、人間の能力には限りがあるのに、苦痛の能力ばかりは限りも知らないものに思われること.....こういう苦痛の不可能な領域、つまり感覚や感情の表現としての苦痛の不可能な領域にひろがっている苦痛の静けさが「ゲルニカ」の静けさなのである。
この領域にむかって、画面のあらゆる種類の苦痛は、その最大限の表現を試みている。
その苦痛の触手を伸ばしている。
しかし一つとして苦痛の高みにまで達していない。
一人一人の苦痛は失敗している。
少なくとも失敗を予感している。
その失敗の瞬間をピカソは悉くとらえ、集大成し、あのような静けさに達したものらしい。>
この三島の感覚は私も共感します。
一流の文学者の独創的な寄稿文はまた格別です。
マドリードに駐在をしていた頃には何度も「ゲルニカ」を観に行きましたが、ある時親友の妹(芸大の教授)のお供で訪れた折のこと、彼女は絵の前に佇むとすぐに涙を流されたのです。
私はとっさに自分の感受性の無さに聊か忸怩たるものがありました。
(勝峰昭 執筆2018.11.20)
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FIN
(次回2022.04.02更新予定)
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