勝峰 昭の「神の美術」あれこれ。

キリスト教美術―スペイン・ロマネスクを中心に― AKIRA KATSUMINE

カテゴリ: スペイン・ロマネスク美術/建築

20231102_1
     サン・フリアン・デ・ロス・プラドス教会

プレロマネスク
の概念は固定概念ではありません。
一般的には後期古典時代からロマネスク美術が定着した時期までをいいます。

それは5〜11世紀初頭あたりとなります。

この概念は決して他のものより劣っているということではなく、発展のための社会的文化状況が整っていない時代のスタイルだということです。

当時の政治、社会、文化、宗教などの外部環境が極めて流動的であったところに、アラブの侵略があったので、固定概念の形成が困難な時代であったということです。


711年モスレムの侵略を受けてビシゴド王国が崩壊、これに合わせてアストゥリアスではペラヨ(718〜737)首領がモスレムの侵攻を阻むべく立ち上がりました。

722年コバドンガの戦いで勝利した後、代を経てアルフォンソ2世(791〜842年)は、首都をオビエドに定め、ビシゴド王朝の後継者を自認しました。

これが、Ordo Ghotorum de Toledo en Oviedo  (オビエドにおけるトレドのゴート秩序)です。



アストゥリア美術は古代の技術および様式を基本にして、イスパニア・キリスト教美術とイスパイアにおける後期ローマの遺産の承継者を自負しています。

宮廷は繊細で豪華な造形的特徴をもっています。

スペインのロマネスク美術が定着する前の時代に、アストゥリアスでは最後までイスラム侵攻から王国を守り抜きながら芸術創造をやめなかったにです。

アルフォンソ2世時代に建造され、現在ユネスコの世界遺産に指定されいくつかを紹介します。


20231102_1
   サン・フリアン・デ・ロス・プラドス教会

20231102_2
    サン・フリアン・デ・ロス・プラドス教会

 


20231102_3

  サン・ミゲル・デ・リーリョ教会




20231102_4

サン・ミゲル・デ・リーリョ教会
 彫りもの(玄関口の脇柱の浮彫りはサーカスの遊戯が展開、下部には執政官と二人の従者がいて片手に杖とハンカチを持ちゲームの開始を告げています。)





アストゥリアス王朝はその後、オルドーニョ2世の時代の914年にレオンに遷都となり、芸術はレオンを中心とした時代に移行していきます。


(勝峰 昭執筆:2006年10月31日)

写真は、”El románico”   Larousse、2006年より
 
_____________________



 

【お知らせ】


勝峰昭著『イスパニア・ロマネスク美術』、『神の美術―イスパニア・ロマネスクの世界』(光陽出版社)は刊行以来、
三省堂書店神保町本店の美術書コーナーでお取り扱いいただいてきましたが、
2022年5月新社屋建設のため移転縮小となることにより、今後はアマゾンだけでの取扱いとなります。


イスパニア・ロマネスク美術
勝峰 昭
光陽出版社
2008-08T


 






 ____________________


(次回2023.12.02更新予定)




________________________________________





 FIN__________________ 
 
       


本屋で過ごす時間は、日本においてもスペインにおいても格別のものだが、かの地では次の機会がないかもと思うとカゴの中に躊躇なく本を入れていく。

帰国後はそれらを翻訳する楽しみが待っている。


20230902_1

Catedrales Románicas』Catedrales de España―、Isabel Frontón Simón、Ediciones Jaguar




 E,Javier Pérez Carrasco の序文より一部抜粋し邦訳します。




Catedrales y Monasterios románicas

 

Burdas generalizaciones han intentado establecer entre el estilo románico y el gótico la misma oposición que existe entre la cultura monástica y la urbana. 

 

 

ロマネスク大聖堂と大修道院


極めて大雑把に概括的に云うならば、ロマネスク様式とゴシック様式の間には、修道院文化と都市文化との間に存在するような相反的なものがある


往々にして前者は大修道院固有の美術だと見做されている。


議論の余地がないのは、ロマネスク世界において大修道院は第一級の美術と文化の中心であるが、その重要性は過小評価されている嫌いがある。


それはゴシック世界においても大同小異である。


いやその度合いがさらに大きいのは大聖堂の方かもしれない。


バラル・イ・アルテットの見解によれば、10世紀における建設や改修の中心は大聖堂であり、11世紀中にはさらにその度合いを深め、新機軸や野心的な計画が行われた。

 


ロマネスク大聖堂の不評の原因は、多くの場合その顕著な主体性を正当に評価出来ない多くの歴史家たちの無関心や無理解によるもので、そのために恐らくその主原因は、今日眺望できるゴシックの巨大寺院によって置き換えられたときに、その大部分の造形が破壊されてしまったからである(結果として忘却されてしまった)

 

一つの大聖堂を建設するには、大規模なプロジェクトをよく知り遂行する能力を備えた偉大な人物を必要とした。


出たとこ勝負で人気取りの感覚とは程遠く、司教座聖堂は計画性を持った力量の産物であり、また比較的短い期間にこういった野心的な建物を建造するために必要とする、健全な資金力の産物である。

 

####


Los Complejos catedralicios

 

Los complejos catedralicios conformaron los conjuntos arquitectónicos más monumentales de la Edad Media peninsular, aunque sólo el de Santiago de Compostela llegó a tener unas dimensiones grandiosas. 


複雑極まる大聖堂群

大聖堂群はイベリア半島の中世時代のもっとも記念的総合建築物となったのである。


ただサンティアゴ・デ・コンポステラ大聖堂だけが巨大な規模を持つに至った。


しかしながら修道院によって違いはあるが、わずかな修道院だけが回廊を持ち、司教の息のかかった出先としての修道院のほとんどが、各種の奉仕のために司教施居住施設や病院などを備えた。


####

 

最後に次のことを想起しておきたい。


中世時代においてあらゆる建物は、とくに彫刻物において、他彩色を施されていた。すべて色付きで、今日の壁画もすべてそうであるが、こういった塗り物は脆く傷みやすいので長持ちしない。


極端な古臭い批判かもしれないが、他彩色塗は石から剥げ落ちやすく、修復もなかなか厄介で中世の聖堂の彫刻物の元のイメージは失われてしまう。


著名な歴史家J.Heersはこの点についてかなり辛辣で、


“今日的に見れば、ロマネスクでもゴシックでも教会の造形は大きな間違いだ。凝縮した低い荒削りの天井のようなロマネスク的なものから学んだ上に陶酔してしまい、またゴシック的裸石の貴族的で簡素な明るさ、それに反し金ぴかの色彩を放つけばけばしさ…”


事実、造形的要素や生き生きとした色彩に優れ、壁の上部分には通常平坦にピグメントが塗られ、全体として均質性が与えられ、切り石の接合部分が目立つ。


#####

 

大聖堂は、多くの人々が参画し信者たちの厳粛な職務と典礼に熱情によって、信仰教育活動や典礼と教会としての慈善事業の重要な中心である。


大聖堂は熱心な祈り、洗礼、ミサ、聖職務、結婚や葬祭などの場所となり、とどのつまり共同体のあらゆる宗教生活の重要な場所でもある。


また往々にして巡礼の中心ともなり、年間を通じての主要な祭事、聖パトロンの存在などに多くの大衆がやってくる。


しかも教育のための特筆すべき場所で,しばしば長い退屈する説教の場でもあり,また外陣にはお香が焚かれ、いい匂いの中で素晴らしい祭事が展開する。


忘却してならないのは、寺院就中大聖堂では長い年月に亘り、建物内の広い覆われた空間の中で、典礼的あるいは世俗の見世物が催された。


ヨーロッパの田舎では1718世紀には新しい劇などが創作されたこともある。

 

 

しかしながら、書類と云う形の数多くの証拠が明らかにしているように、中世の人たちは必ずしも教会内部で然るべき敬意を以てふるまったり、装飾に意を用いたりしなかった。


その理由はいたって単純である。


つまり宗教施設の内部は、信者の場所であり、公共的なものであり公共の結構な集会場所だったからである。


壁の内部でぶらぶらしたり、凍てつくような冬又炎熱の夏でも遊びに興じたり、飲み踊り、放縦なはやり歌のリズムに合わせて歌い、聖人祭りの前夜は特にそうであった。


また典礼歌の最中に世俗のメロディ―なども聞こえてきたりした。普通の宗教会議や公会議などは時に応じて、聖堂内部は神聖な信仰の為のみに使用されるべきものであり、市場や会合のためのものではないと注意を促したほどである。


神に関連する事柄に親しむと、あの頃の数世紀独特の特徴として、一種の共生、霊的なものと地上的なものを考慮すれば自明となる。


.ウイジンガが古典研究の中で指摘しているように、中世の人たちの日常生活からみて考えさせられるのは、“信仰にあまりにのめり込んでいるため、寧ろ聖なるものと異端なるものの間にある距離を測ることができなくなることを恐れていたと云える。



                

 ( 翻訳:勝峰 昭 2017.09.23)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この書籍に取り上げられている大聖堂の写真を以下3点紹介します。 



20230902_4






20230902_2







20230902_3
     


_____________________


 

【お知らせ】


勝峰昭著『イスパニア・ロマネスク美術』、『神の美術―イスパニア・ロマネスクの世界』(光陽出版社)は刊行以来、
三省堂書店神保町本店の美術書コーナーでお取り扱いいただいてきましたが、
2022年5月新社屋建設のため移転縮小となることにより、今後はアマゾンだけでの取扱いとなります。


イスパニア・ロマネスク美術
勝峰 昭
光陽出版社
2008-08T


 






 ____________________


(次回2023.10.02更新予定)




________________________________________





 FIN__________________ 
 
       

 

 

 

 

                              

聖ヤコブのスペイン名がサンティアゴです。

7月25日はスペインでは祝日とな
ります。


20220722_1 (1)
  
サンティアゴ・デ・コンポステラ大聖堂  ©KKT


サンティアゴ・デ・コンポステラ大聖堂ではこの日、

聖人への捧げ物と巨大な香炉ボタフメイロが大きく揺れ動かされて香で満たされます。

 


20220722_3
   
©KKT




20220722_2 (2)

   地下祭室 聖ヤコブの聖遺物  ©KKT


イエス・キリストの十二使徒のひとりサンティアゴはエルサレムで殉教しました。


その墓が、伝説によれば813年イベリア半島のガリシア地方で発見されて、重要な聖遺物を崇敬するために巡礼が振興されました。


20220725_7
  
パドロンのサンタ・マリア教会 (ヤコブ到着の図が刻まれています)
   (講談社『サンティアゴ巡礼路』より)




サンティアゴ巡礼路の繁栄と、クリュニー大修道院に端を発して、基本的には多様な美術様式を統一し、画一的なロマネスク様式(聖堂は石造り、平面はラテン・十字形バシリカ方式、三廊式、高さを求めず聖堂内部に暗さをもたらす造形など)が、11〜12世紀にわたって地中海沿岸地方とサンティアゴ巡礼路周辺に展開しました。


巡礼路における盛期ロマネスクのこの教会は19世紀に改修されたものの比較的原型をとどめています↓
 


20220725_10 (2)
  
サン・マルティン・デ・フロミスタ教会  ©KKT


20220725_10 (1)
   
後陣  ©KKT  (『イスパニア・ロマネスク美術』より)

 

巡礼路を通じてヨーロッパの様々な地域間の交流がなされ、キリスト教ヨーロッパという文化単位の醸成を勢いづけました。


20220722_4



今日の大聖堂は、ロマネスク、ゴシック、バロック、ルネッサンスなどの建築あるいは装飾様式を取り入れた集大成といえます。



 (勝峰昭 執筆:2015年5月25日)



 
【お知らせ】

勝峰昭著『イスパニア・ロマネスク美術』、『神の美術―イスパニア・ロマネスクの世界』(光陽出版社)は刊行以来、
三省堂書店神保町本店の美術書コーナーでお取り扱いいただいてきましたが、
2022年5月新社屋建設のため移転縮小となることにより、今後はアマゾンだけでの取扱いとなります。


イスパニア・ロマネスク美術
勝峰 昭
光陽出版社
2008-08T


 






 ____________________


(次回2022.08.02更新予定)

_______________________










⚪︎ エルサレムで殉教したサンティアゴの遺体は密かに船に乗せられ、スペインの海岸に流れ着きました↓

20220725_5
〈聖ヤコブの亡骸の移送〉 (Museo del Prado, Madrid)
『遠藤周作で読むイエスと十二人の弟子』新潮社より




⚪︎ 右手にい巡礼の杖を持ち、背負う袋にはホタテ貝がついています↓


20220725_6

〈聖ヤコブ〉エル・グレコ (Museo de Santa Cruz de Toledo)

『遠藤周作で読むイエスと十二人の弟子』新潮社より


______________________________




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 

イベリア半島に侵入してきたイスラム軍3万7千人のうち、アラブ人1万8千人、シリア人7千人、ベルベル族1万2千人でした。

こうしてイスラム統治が始まり、8世紀から15世紀までイスパノ・イスラム美術がロマネスク美術に組み込まれて、モサラベ様式とムデハル様式が派生したことを6月のブログで紹介しました。

 

ウマイヤ朝美術が... : 勝峰 昭の「神の美術」あれこれ。 (livedoor.blog)

 


 

・・・・・・・・・・・・・・・・

 

ムデハルとは、レコンキスタ(国土回復)の進展とともに、キリスト教徒の支配下にはいった領域に残って居住したイスラム教徒のことをいい、彼らのもたらしたイスラム美術の一部様式をムデハル様式といいます。

 

この様式が12世紀中ごろからロマネスク美術に組み込まれて、とくに聖堂建築の分野では外壁にレンガを用いたので、赤みがかった特異な形相を見せます。

 

建築資材としてのレンガは比較的廉価であったこともこの様式が急速に普及した一因になります。


イスラム教義の単純性、硬直性、徹底性、論理的整合性、そして何よりもその文化の感性的な抽象性は、特に建築の分野において、拡散的、反射的、鉱物的な硬さ、幾何学な文様装飾など独特な様式的特徴につながります。

 

古都トレドのアルフォンソⅥ世(1072-1109)は「三宗教の王」すなわちキリスト教、ユダヤ教、イスラム教徒の王だと自称したほど宗教に対して柔軟な政策をとりました。



 

 20220712_1Tpledoクリスト・デ・ラ・ルス

  トレド クリスト・デ・ラ・クルス (旧モスク)




 

 20220712_2Toledoサンティアゴ・デル・アルバール
  トレド サンティアゴ・デル・アラバール教会



レコンキスタで戦う戦士のキリスト教徒たち、
商業、工業、手工業で生計を立てたイスラム教徒たちは人々の生活の基盤をつくり、
ユダヤ教徒たちは金融・財政を担当していました。



カリオン・デ・ロス・コンデスからレオンにいく巡礼路途上のサーグンにいくつかあるムデハル様式の聖堂のひとつ、サン・ティルソ教会は赤褐色のレンガ造りで盲アーチが印象的です。


20220712_3
     サーグン  サン・ティルソ教会


イスラムの征服したイベリア半島の大部分において既存のキリスト教美術はイスパノ化して、他の西欧の国には見られない、多様性を統一したスペイン独自のロマネスク美術として確立されました。



 (勝峰昭 執筆:2015年5月25日)



 
【お知らせ】

勝峰昭著『イスパニア・ロマネスク美術』、『神の美術―イスパニア・ロマネスクの世界』(光陽出版社)は刊行以来、
三省堂書店神保町本店の美術書コーナーでお取り扱いいただいてきましたが、
2022年5月新社屋建設のため移転縮小となることにより、今後はアマゾンだけでの取扱いとなります。


イスパニア・ロマネスク美術
勝峰 昭
光陽出版社
2008-08T


 






 ____________________

FIN

(次回2022.07.22更新予定)

_______________________




c3088fb5.jpg



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 


スペインの中世は711年のイスラム侵攻以来、イスラムの最後の砦グラナダが開城する1492年までの8世紀にわたる長期間キリスト教徒とユダヤ教徒とが共生する時代となりました。

建築の特異性もこの歴史のユニークさから形成されました。

ユダヤ建築はイスラム建築を借りて、スペイン建築の特質はこのイスラム建築との共生を通して形成されたといえます。

 

一方、カタルーニャはカロリング朝の属州マルカ・イスパニカとして最初からフランスとの関係が密接でした。

中世のカタルーニャはピレネーを挟みスペイン・フランス側両方にまたがる文化圏を形成していました。

南方のイスラム化されたスペインと、北のヨーロッパとの間に形成された文化圏といえるカタルーニャ。

この時代の精神的支柱となった中心人物が、当時の西欧文化を代表する高僧の一人オリバ修道院長(971ー1046年)でした。

リポイとキュサックの修道院長、ビックの司教として活躍しました。

カタルーニャ・ロマネスクの三大宝物の一つといわれているリポイのサンタ・マリア大修道院教会の西正面扉口の彫刻をご存じの方も多いことでしょう。



20220522_2


一大叙情詩である図像は大まかにいうと、上層には人類に約束された未来、中間には戦闘的な過去、下層は現在の労働が表現されています。

この時代のカタルーニャ・ロマネスクのことを初期ロマネスク芸術ともいいます。



これはバルセロナの古本屋さんで入手したサンタ・マリア・デ・リポイ修道院の冊子です。


20220522_1




ここにこんなA4サイズの貴重な一枚が挟まれていました。


20220522_3

だれが、いつごろ、どんな思いで、とあれこれ想像しています。

(勝峰昭執筆:2015年5月15日)


【お知らせ】

勝峰昭著『イスパニア・ロマネスク美術』、『神の美術―イスパニア・ロマネスクの世界』(光陽出版社)は刊行以来、三省堂書店神保町本店の美術書」コーナーでお取り扱いいただきましたが、2022年5月新社屋建設のため移転縮小となることにより、今後はアマゾンでの販売のみとなります。




23beeb9b.jpg
    (これは別の機会、マドリードの古本市の様子です)
 ____________________

FIN

(次回2022.06.02更新予定)

_______________________



大聖堂の建設を意欲的に促進、可能ならしめたもう一つの理由は、「レコンキスタの進展」だと思います。

 

その兵站路またカトリック道(芸術の道)となったのが「サンティアゴ巡礼路」で、この幹線道路は1112世紀に亘るキリスト教社会、文化、経済の活性化をもたらしたのみならず、ロマネスク大聖堂の建造へ大きなインパクトを与えました-ハカ、パンプローナ、ブルゴス、レオン、アストルガ、コンポステラなど巡礼路の諸都市にはロマネスク様式を備えた大聖堂が建造されたのです。

ゴシックへの移行はこれらの聖堂のロマネスク的造形を払拭することになり、現在ではある程度の形跡を留めているに過ぎません。

 

正しく経済学者シュンペーターがその著書『経済発展の理論』で云ったように、時代は無情なもので「創造的破壊」を行うものです。




20220212_4Leon

 レオン大聖堂(3写真とも‟CATEDRAL DE LEÓN LAS VIDRIERAS” Edilesaより)

 



20220212_5

(レオン大聖堂は外からはゴシック様式の聳え立つ存在感に、聖堂内に入るとステンドグラスの美しさに圧倒されます)




20220212_6

(ステンドグラスの一部にロマネスク様式が残されています)



留意すべきは、11世紀の教皇グレゴリオ改革(グレゴリオⅦ、10731085)により、キリスト教会の腐敗による暗黒時代を抜けだし、聖職者叙任権を王朝から教皇に取り戻し、修道院でも「ベネディクト戒律」に基づく規律の回復を通じて所謂「神の平和」の時代が訪れようとしていました。

 

12世紀はこの意味で時代を画するキリスト教の興隆期をもたらす節目の時代でした。

イスパニアは漸くコヤンサ公会議(1055)の決議で、四つの司教区Diocesanaに分割(cuatro provincias ecclesásticas:サンティアゴ、トレド、タラゴナ及びブラガ)、つまりイベリア半島の四王朝(レオン、カスティーリャ、アラゴン-カタルーニャおよびポルトガル)に相応、これに13世紀末にはセビーリャが加わり、五つの司教区となり、1953年教皇庁との宗教協約発効まで継続します。

 

常識的には、イスパニアのロマネスク美術の温床は修道院、中でも大修道院であると認識されてきました。

 

しかしこれは一面的で、少なくとも11世紀においては大聖堂がより先駆的役割を果たしたと思えます (X.Barral i Altetの判断)

 

しからば何故こういった認識不足が生まれたのでしょうか。

 

参考図書Catedrales Románicasによれば、それはイスパニアの歴史学者の無能の所為であると極論しています。

 

  

さらに大聖堂が後に巨大なゴシック様式に衣替えしたときに、無理矢理ロマネスクの痕跡が取り去られたことに起因します。

 

しかし当初の初動的なロマネスク美術導入の先駆けは、間違いなく大聖堂であったことに我々は再度留意すべきでだと思います。


20220222_4
 

 

20220212_1Siguenza

           La Catedral la Siguenza, 2017, KK

 

しかしながら修道院は、同時並行的にまた永続的に大聖堂の変革後も、一貫してロマネスク美術を守ってきたといえます。

 

またシトー派の華美な装飾に対する否定的態度も、過去のものを払拭・破壊するのではなく、自らが新たな修道院建設時に自らの宗教信条にしたがい心したことで、田舎や人里離れた処に初期-盛期中世時代に建設された数多くの修道院のロマネスク的要素の秘めやかにして馥郁たる霊的存在と、華やかで壮大なゴシック大聖堂を対比することはあまり意味がないことでしょう。

 

 

 

(勝峰昭執筆2018.05.26

 

 

_______________________

FIN

(続きは次回2022.02.22更新予定)

_______________________

 

 

大聖堂Catedralとは、大小さまざまな教会堂の中でもモニュメンタルな偉容、規模と格式(大司教や司教の存在)をもつ聖堂のことを言います。

 

語源的にはcatedra(高位聖職者の地位)ラテン語由来です。

 

一般的には「大聖堂」と云えば、ゴシック様式の所謂巨大な大聖堂を思い浮かべますが、ロマネスク大聖堂も各地に散在します。

 

創建当初のロマネスク様式に、ゴシックや一部バロック的な様式も加わり増改築や修復が為されたものがほとんどで、元のロマネスク様式の造形が随所にみられます。


20220202_3



20220202_6Lerid (1)

       La Catedral de Lérida, 2017, KK

 




このような大聖堂は都市の象徴的存在であり、そこでは宗教的行事や典礼、信者共同体の催事、会合など、住民たちに私的目的のために幅広く場を与えました。

 

ある程度人口がまとまり司教が常在すべき都市に建設されるのが常です。

 

イスパニア・ロマネスク大聖堂と云われるものは25あります*

 

* Isabel Frontón Simón / F.Javier Pérez Carrasco共著  

 Catedrales Románicas de EspañaJaguar , 2004

 

 カタルーニャ: 6

 ビック

セオ・デ・ウルジェイ

ソルソナ

ヘロナ 

タラゴナ

レイダ

 

 アラゴン  3

    ロダ・デ・イサベナ

ハカ

サラゴサ

 

 ナバラ、リオハ、アストゥリアス: 3

    パンプローナ

サント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダ

オビエド

 

 カスティーリャ: 9

    サモラ

サラマンカ

シウダ-・ロドリーゴ

ブルゴ・デ・オスマ

シグエンサ

ブルゴス

パレンシア

レオン

アストルガ

 

 ガリシア: 4

    ルーゴ

オレンセ

トゥイ

サンティアゴ・デ・コンポステラ

 
 

当時の宗教施設(教会や修道院)創設に対する需要は想像を絶するものでした。

 

こういった状況を勘案すると、一つの大聖堂建設に数世紀を要したこともあったという歴史的事実は頷けます。

 

このような莫大な資源を要する大聖堂の建設は、必然的にそれらを調達可能にする後背地、都市の存在が欠かせません。

 

都市といっても今とは違い、一部の建物を除き当時は狭い路地が錯綜し、みすぼらしい家屋が軒を並べる大きめの集落だったと考えられます。

 

 

 

大聖堂群の中には、Roda de Isábenaのように、辺鄙なところに存在するものもありますが、それは偏に王朝による政治的・地政学的要請に基づく戦略的志向が立地を決めたのです。

 

とはいえ大聖堂は都市の中央部にあってその象徴であり、司教の主宰するキリスト教権威の拠点でもありまた芸術的なモニュメントでもありました。

 

この二元性は、キリスト教美術を探求するものにとって、最大の関心事となるのは当然なことです。

 

大聖堂は、祝祭や催事の場所でもあり、そしてなによりも人々の精神的な拠り所であったと云えるでしょう。

 

 

論文「イスパニアのロマネスク大聖堂―その存在理由と背景について」20117月に書きました。

 

今回はその冒頭の一部をとりだしました。

 

今月はイスパニア・ロマネスク大聖堂の存在の概要を3回に分けて述べたいと思います。

 

(勝峰昭執筆2018.05.26



20220202_4


20220202_6Lerid

  
 La Catedral de Lérida, 2017, KK



 

_______________________

FIN

(続きは次回2022.02.12更新予定)

_______________________

 

イスパニア・ロマネスク美術とは何かを一言でいえば、乱暴かもしれませんがそれは「クリュニー・ロマネスク美術+ビザンチン美術+イスラム美術」といえるでしょう。

 

東京国際大学・塩尻和子特命教授の「イスラームの人間観・世界観」と題した短文が学士会会報No.928H.301月発行)に、掲載されています。

 

限られた紙幅に極めて要領を得て分かり易くまとめられていて、イスラム教に全くなじみのない私にも示唆に富む箇所がいくつもありました。

 

↓↓↓

 

イスラーム教は、「時間は直線的に展開し、始めと終わりがある」、

イスラームの世界観(宇宙論)は「神の創造は絶えることなく、いまのこの瞬間にも不断に続くものである」、

「アラーとは、アラーという名前を持った神ではなく、“神”そのものです。

 

またイスラーム教は極めて単純で、聖職者組織もなく、三位一体論のような教義論争も異端審問もなく、基本的な信条さえ守ればそれぞれの地域の文化・伝統を受け入れる土着化を容認した」

 

と先生の論旨は明快です。

 

 

↑↑↑

 

 

 

さて、イスパニア・ロマネスク美術は、主としてフランク地域、ロンバルド、ビザンチンなどの外部からの様々要素・様式の影響を受けていますが、同時にイスラムの影響(モサラべ)も色濃く受けています。

 

これが「イスパニア・ロマネスク」と呼ばれる所以であり、その最たる特徴であることはご承知の通りです。


p084-h

写真はモサラベ建築の代表的な一例である、サン・ミゲール・デ・エスカラーダ修道院教会(レオン市南東20km)です。

 

このイスラム様式をもたらしたモサラベの人たちが伝えた様式から、何かイスラム教の教義なり思想的片鱗が窺えないだろうか、これが私の興味です。

 

(勝峰昭執筆2019526日)

                                                      

______________________________

 
           

参考:

<モサラベという語はアラビア語由来の造語で、その定義は「個人について、アラブ侵入(711年)から11世紀末までの期間にわたって、イスラム領域に居住したイスパニア・キリスト教徒」をいう。>

 

(『イスパニア・ロマネスク美術』勝峰昭著、光陽出版社、2008年より)

 

 

FIN

(次回は2021.12.02更新予定)

_______________________

この年はロンドン経由でスペインに入った。

2015年の秋のことである。

 

盛り上がった小山の頂きに、著名なロマネスクの教会と一体になったパラドールが見えてきた。

 

仲間のワァーという歓声のうちに狭い裸路をくねくねと登り到着した。


20211102_1

   サン・ビセンス・デ・カルドナ参事会教会 『El románicoKONEMANNより



バルセローナから約100㎞、ピレネーの山裾に入ろうかというところにあるカルドナ。

 

パラドールの地下階にあたる狭い入り口から小さなエレベーターでフロントある階に進んだ。

 

9世紀に建造されたこの古城がパラドールとなっていて、サロンは重厚な調度品で格別の雰囲気を醸し出してがっしりとした石壁に守られていた。

 

17時になろうかという頃で、何の下準備も知識もなく、教会に行こうかとフロントで入り口を訪ねるともう閉じているという。

 

それでもせめて外からでもと内廊下を迂回して進むと、外廊が見えてきた。

 

西の扉が開いている様子なので顔を突っ込むと、薄明のなか何と完璧なロマネスク様式の身廊に長い人影がふたつ、内ひとりが幸いにパラドールのディレクトールで、ぜひ中を見せて欲しいと請願したところ快諾された上に案内役も務めてくれた。

 

恰幅の良い微笑みを絶やさぬ温厚な人柄であった。

 

三廊式のバシリカ様式聖堂で、身廊のその高さが印象的であり奇異に感じて尋ねたところ、ロマネスク様式ではサンティエゴ・デ・コンポステラについで高い聖堂だということだった。


20211102_3 (2)

     Guía del Románico』より



奥に進み、10段ほどのステップを降りると光りとりの窓が極めて小さく、暗い礼拝の場が何本かの柱に支えられていた。


20211102_2

 

     『Guía del Románico』より



左右の石壁には絵もなく、尋ねると美術館に持ち去られた由。

 

堂内入り口付近には縮小図が設置されていた。

 

(勝峰 昭 旅NOTE2015.10.12)

 

-------------

 

 

(管理人より)

勝峰昭著『イスパニア・ロマネスク美術』p.98

初期カタルーニャ・ロマネスク時代の典型例として、
Colegiata de Sant Vicenç de Cardona
サン・ビセンス・デ・カルドナ参事会教会を紹介しています。

10291040年建造。

_______________________
FIN

(次回は2021.11.12更新予定)

_______________________

マドリード(c/SerranoR3/A3に乗るのは比較的容易だったが、Arande del Rey の先からValadilechaまでの道のりには難儀した。

 

分らぬときは何度も人に聞くに限る。

 

村は小綺麗で山腹にあるためか道は坂で入り組んでいた。

 

中心広場に車を停め、坂道を左方に少し上ると目指す Mudejar Románico様式(13世紀初頭)のSan Martin Obispo教会に着いた。


20211002_1

 

中規模の一廊式一祭室、祭室の外郭は盲アーチのムデハールらしいレンガ造りの赤茶けた色彩が往年の姿を偲ばせる。


20211002_2

 

大方カメラで撮影を終えた頃、若い神父がそこに現れ、十字架の飾りつけをしていて今日は撮影禁止ということだった。

 

聖堂の内部は薄暗く、村人が数人敬虔な祈りを捧げ聖書を手にしていた。

 

祭室の壁画はパントクラトールだが、マンドルラの中に主の下半分だけの赤い衣が印象的に残っていた。

20211002_3


マドリード自治州内における、ロマネスクからゴシックへの移行期の壁画で残存している珍しいものである。

 

聖堂の外側の低い道路では青空市がたっていて、果物や安物の衣類などが並んでいた。


20211002_4

 

空は一点の雲もなく見事な紺碧の様相で、強い太陽が眩しかった。




20211002_5



Aranjuez への道中は、晩秋のポプラ並木に陽光が降り注いで、木々の間に落葉片々が眩しい黄金色の雨を降らしているようだった。ゴッホの絵のようだった。

 

(勝峰昭 旅NOTE 2010114日)



20211002_7



20211002_6

FIN

(次回は、10月22日に更新します)

_______________________________



↑このページのトップヘ