勝峰 昭の「神の美術」あれこれ。

キリスト教美術―スペイン・ロマネスクを中心に― AKIRA KATSUMINE

カテゴリ: スペイン・ロマネスク美術/事物

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(写真)Tavérnolesの祭壇飾り          

12世紀後半テンペル画の板絵、118x218cm
Sant Serni de Tavérnoles(Alt Urgell) 
(『 El Esplendor delRomanico』より)
 

                 
 
今回はやや専門的になりますが,所謂「装飾」を云々する場合、技巧の分野も知っておくべきだと思うので、様々な資料から少しばかり詳細に纏めてみました。専門用語で日本語の訳が不明な場合もあったので、その時は原文のまま記載しました(また材質はラテン語を参考のため載せました):―
 
 
教会の祭壇前、所謂聖域に置く板絵の制作は骨の折れる厄介な仕事でした。先ず木の支えを作り、通常それは長い形の柱のようなものですが、縁を糊付けし、互いに木の釘で連結します。しかしいくつかの例では支えの表面を糊のついた布で覆い(Planés)、または羊皮紙で糊付けして端の継ぎ目を強化するのです(例:Baldaquino de Ribesリベスの天蓋,Frontal de Aviáアビアの祭壇飾り)。構成は四つの片からなる木の額縁を嵌め、既述したような方法でつなぎ合わされます。しかしある場合には、UrgellないしIxのように、隅を鍛造具で補強し、同様に反対側も繋ぎ目は通常鍛造釘で固定されたクロスバーで補強されました。使用された木材は普通赤松(Pinus sylvestris)で、ピレネー峡谷に存在しますが、黒松(Pinus nigra(Planés, plafón de Tost)は全カタルーニャに広がり、あるいはポプラも用いられました。
 
支持台には漆喰が二層に塗られます:下の層gesso grosso は、土を含む粘っこい石灰の合成物;上部層gesso sottileは水抜きと煮沸された後に絹のような繊細さをもたせ、この処理の後合成物を切断。 Sant Romá de Vilaの祭壇飾り、ないしはTosiの天蓋の天井中央の装飾、または単にステンシルの素描の線、例えばPlanésの祭壇飾りの場合がこれにあたります。
 
  
 
さらに有機接着剤とともにテンペラ色素が用いられ、普通は卵の黄身を混ぜ合わされます。然るに古の板絵の分析によれば、Urgell, Ix 及びEsquiusでは動物から生成した別の蛋白接着剤を用いたことが証明されています。おそらくcharavellaの尻尾か子山羊でつくられたある種の接着剤で、Cennino Cenniniによれば、柔らかい動物の皮から焼成されたもの、または鼻の肉、ひずめ、内臓の類からか、あるいは独特の羊皮紙からかもしれません。
 
色素に関していえば、大半が無機質なものから抽出されましたが、13世紀の初めには、青と赤は植物源泉の漆のようなものだと証明されています。具体的にはTosiの天蓋とかMosolの祭壇飾りにおけるがごとく、両者はともにLa Seu d’Urgellの工房で制作され、1200年ビザンチン芸術の強烈な刻印が押されています。第一段階では、画家たちは細密画の処方にふさわしい無機色素に頼ったのですが、結局La Seu d’Urgell祭壇飾りの場合のように、黄色、赤や緑青のような手稿本の挿絵に特徴的な豊かな絵画的な明るい色の配合に馴染んだようです。実際によく粉引きされ、この技術に相応した高価な色素を使ったことが確認されています。orpimento(砒素硫化物)は黄色あるいは赤のための辰砂などのことです。辰砂は鉛白(hidroccrussita)と組み合わせたり、他方衣服においてはごく普通の酸化鉄(ヘマタイト)Ix, Esqwuius, Planés)の層の上に鉛丹と混ぜ合わされます。青の場合、例外的にラピスラズリ(Esquius)が用いられ、ピレネーのaerenitaに依存しました(Urgell, Ix)。一方緑は混合又はorpimentoのうえにaerenitaを重ねおきました(Urgell, Ix, Planés, Tost)。一つの限定された色調を得るために色素を重ねることは度々あり、とりわけマリーンブルーの場合、ラピスラズリの効果を模倣しようとするとき、下にカーボンブラックの層をおくわけです(Planés, Tost)。これらの多くの処方は、HelaclioまたはTeófiloのようなもっともよく知られた専門書の細密画を扱った章に見られます。
 
これらの処方の知識は同様に尖端的となりました。具体的には現代のTeófiloが半透明の絵画と名づけたもので、いくつかの部分の品を良くするために鍍金した一葉の錫のようなものです。この技術はウルジェイの初期板絵のキリスト光臨の十字架に用いられています。またキリスト世界を現す球体、使徒たちの象徴(ペドロの鍵、本、巻物)、聖マルティンに奉献された情景(貧者にマントを分け与える)、洗礼志願者を蘇らせる司教杖;及び錫板のキリストの十字形光臨の中の石膏の浮彫りの跡(pastiglia)が見られるEsquiusなど。
 
 
 
cordaduraまたはdeauratiofacilisといった記述の技術は、リポイのサンタマリア修道院で1134年に創られた多様な手稿本(マドリッド国立図書館、Ms.19)に処方が載っています。板のすべての表面に対する洗練された形式や体系的な応用は、Planésの祭壇飾り、Alósd’IsilGinestarre (The Cloister, Nueva York)及びEsterri de Cardósのようなカタルーニャ・ロマネスクの特徴を備えたものに変わるでしょう。こういった方式があらゆる効果をもたらすため、はじめて体系的な形式に浮き彫りを模倣しようとした-人像、植物装飾ないし磨いた宝石-。そして事物の輝き、具体的にはLimogesの近代の七宝がそうですが、それは当時の流行でした。しかしながら工程は多様です;Planésでは石膏の人像が型で前もって作られ、そして直ちに描くために表面に貼り付けられたならば:残りの祭壇飾りにおいてはpastiglia様式、すなわちペインティングナイフで造形され、ニスで色づけされた錫板で覆われた表面に、熱した石膏を塗る方式となったことでしょう。
異なった処方へ移行 あるいは細密画の伝統に依存することは、当初は家たちが、リポイ、ビックやウルジェイのような大きな教会の中心部の庇護を獲得したことを意味します。またそれらの機関は画家たちの活動と形成を指揮しました。何故ならば、実際にことを起こすときのためにそこに必要な技術的知識を溜め込んでいたのです。自分たちの属している大聖堂や修道院に恐らく置かれているこれらの工房から司教区の小教区へそれらを与え、あるいは礼拝用の装飾品と教義の普及を保証するために、典礼用動産を大修道院の支配地からもたらしたのです。明らかにそれらは、生産中心地で作られる金属性の大きな祭壇の素晴らしさに比べ《安価な》事物ではありましたが、「キリスト受肉」の秘蹟の耽美に役立つような《人目を引く》に十分なものであったことは明らかです。
 
やや詳細に入りすぎた感はありますが、この時代の板絵(祭壇前飾り)の芸術性を発揮するための工夫が偲べますね。
 
2018.06.20

 
 

 
 

 
 

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  La Ermitade Sta.Ma.de Iguácel由来、聖域の鉄格子
Museo Diocesano de Jaca 蔵)


 日本人彫刻家、植松奎二氏は2007年に日経新聞文化欄に「渦巻くかたち十選」という題でコラムを連載されました。

そこに取り上げられた様々な渦巻く形について海外の作家たちの十作品から発散される渦巻(螺旋の形)の意味を私なりに纏めますと;

     無限の象徴(優雅な曲線、宇宙の神秘的な法則) 
     三本線をわきに描く(抽象的な肖像画)
     二次元の三次元への変身(立体化への転身)
     一本の線で記号化(特定の意味付与)
中心からの力強い拡張の動き(動的、生成)
     躍動する生命感()

 このように多彩に理解できるかと思います。

 つまり「渦巻くかたち」は総括すれば最後の“躍動する生命感”と云う意味に尽きるのではないでしょうか。

兎も角前向きな感情を見る人に与えます。

 
 上の写真の鉄格子は、ハカの司教座美術館内小祭室に入るところにあります。

 案内してくれた Amigos del Románicoの方が明かりを照らして見せてくれました。


 

私は数年前、銀座の画廊で、親しい友人・中田真央木版画家の作品を購入しましたが、横たわる女性の躯体の上に見事な渦巻模様が描かれています。

この渦巻は若い魅力的な女性の充実した生命感の象徴だと思います。

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中田真央 「夜が五匹でやってきた」 水性木版 2010



イスパニア・ロマネスク美術の場合、このような螺旋状造形は彫刻では柱頭、鉄格子や教会の扉の金具また壁画など多くの場面に出てきますが、一口で言えば上記の“躍動する生命感”すなわち渦巻の形は表出された主たる対象物を生き生きとさせる媒体と考えられます。

2018.03.05
 
    
   

 
 
 

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木彫 12世紀前半 ハカ司教座美術館蔵 
(原所在地:Ermita de Sta. Ma. de Iguácel)



謹賀新年

 年頭でありまた本年第一回目のブログなので、ちょっと堅い話題ですが、基本的なところから始めたいと思います:-
 

 宗教権力が信者に絶大な影響を及ぼした時代―それは社会全般にも言えることですが―特に1000milenarioという「ヨハネの黙示録」の予言―大惨事―に事なきを得た後、1033年というキリストの死後約千年という時代的背景と重なったこともあり、それがイエスの恵みであると受け取られ、いやがうえにも民衆のキリスト教への情熱が増したと考えられます。

 この意味で、一般に「鉄の世紀」と称された全ヨーロッパを覆った厳しい10世紀100年をようやく乗り超えたという安心感から、社会にはキリスト教聖堂を建設しようとする意欲が猛然と燃え上がっただけでなく、民衆は聖人たちや殉教者たちの英雄的な生き方と反抗心に共鳴し、いやが上にも彼らを聖遺物志向にさせました。

 675年ブラガⅢ公会議には教会の総ての祭壇に、聖別のための聖遺物が備えねばならぬ旨の布告が為されたほどでした。

 また787年Ⅱニケ公会議では、こういった聖体拝受が殉教者の血の上で行われるべき旨の布告すら出たほどです。

 このような現象が権力と結びついたり、また医療にも利用されるようになったことは容易に想像できます。

 更に聖遺物を拝むための巡礼的な行事すら民衆の間で行われました、つまり汎ヨーロッパ的にキリスト教への情熱がいやが上にも高まりつつあった時代と云えます。


 一方北方からバイキングの南進が行われたり、これが防衛的な国家形成的胎動や相互交流をフランス、イギリスやイスパニア(後にポーランド、ハンガリーやロシア)などに促したり、こういった地域的まとまりの内部を芸術が国際的に移動する現象が見られるようになったのです。

 当時唯一ともいえる政治権力と結びついた宗教の美術形式であるロマネスクの芽生えをこうして国際間に広げていったと考えられます。

 
ではこのキリスト教美術であるロマネスク美術がいかにして約200年もの長い年月に亘りヨーロッパ全域に根付いたのでしょうか。

この問題について、『Breve Historia delRománicoロマネスクの歴史概説』で、著者カルロス・ハビエル・タラニーニャは大胆に次の様に述べています:

Durante lostiempos del desarrollo del estilo románico el arte se consideraba una forma deconocimiento al mismo nivel que la ciencia, pero orientado a la fabricación deelementos al contrario que aquello, que se reducía únicamente al aspectoteórico, faltaba la parte empírica, entonces reservada a la alquimia <soterrada>…Parasan Buenaventura, afirmaba que la contemplación estética debía provocaréxtasis-como Beatriz a Dante-, el arte se halla relacionado con las tres partesprincipales del alma: la memoria, la razón y la afectividad. Por eso las obrastenían un triple cometido: instruían a la inteligencia , alimentaban la memoriay emocionaban el corazón.

(以下拙訳:勝峰昭)
(ロマネスク様式が発達を遂げている間、それは科学と同様程度の知的レベルだと見做されていた。しかもそれとは反対に、要素の制作に偏り過ぎているとされ、単に理屈に終始してしまい経験を軽視していた。したがってそれは錬金術の分野みたいなもので<秘めた>もので…聖ブエナベントウ―ラの言う、美しいものを観て恍惚状態に誘われたのかもしれない。ダンテが言ったように、芸術は魂の三つの主たるもの:記憶、理性及び愛と関係がある。したがって作品は三重の役割をもつ:知性を磨き、記憶を呼び覚ましそして心を弾ませる。)
 

 ロマネスク美術は上に引用したように、色んな評価はあり得るでしょうが、宗教美術というジャンルは何といっても目に見えない世界のものをこの世で顕在化する美術ですから、当時としての最高レベルの神学、哲学、聖書、歴史学、動物寓意学、装飾学的要素などを糾合した難解なインテリ芸術であったことでしょう、また日常文盲の信者たちの目に触れさせ教育をも兼ねた宗教政策上の標本物みたいな役割をも果たしていたわけで、その意味では単純明快で理解しやすいものでなければならかったでしょう。


大多数を占める民衆に対し、封建制度が確立へと向かうほど王権と宗教ヘラルキーの結託が強められ、結果として協同して総合的にロマネスク美術の敷衍に腐心し基盤を固めていったものと思われます。
                       
 2018.01.05

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写真 :GERの聖母、12世紀、木彫32.5x20.5x14.5cm,MNAC
   (『El Románico el las colecciones del MNAC』より)


 20178月初頭に、AREJホームページに岩越和紀様の素晴らしいイスパニア・ロマネスク紀行が掲載され、その節私は「醜を考える」と題し一文を共載させていただきましたので、今回は掲題の醜の反対概念である「美しい」ということについてこの場で取り上げておきましょう:
 
古今東西を問わず、「美」の概念は哲学や美学の冒頭でとりあげられ、様々な議論の対象とされてきました。
 

今年20174月、G.Poltner著『哲学としての美学―美しいとは何か(初版・翻訳)が出版され、早速一通り目を通しました。やや難解でしたが、最近の碩学の見解であり、何とか理解したといった感じです。


私たちが普通“美しい”と感じる感性の本質を、西欧の古典・古代時代のアリストテレス、プラトンなどから説き起こしています:
 

この書は<様々な美しいものは何によって美しいのか>、その存在根拠は何か、といった問題を提起し、
     ・美しさ自体
     ・美しくさせているもの
二つの面から言及しています。哲学としての美学、古代形而上学における<美しさ>、存在の開示性としての<美>、<美しさ>の主観化と美学的解釈など、その他シェリング、ヘーゲル、ローゼンクランツ、ショーペンハウエル、ニーチェやアドルノなど、碩学の「美論」が論じられています。

 例えば、
 
      ・美とは真に存在しているものが、感性的なもののうちで、光輝くこと(プラトン)。
      ・美とは善くあることと、美しくあることの統一である。
       (美しさは倫理的な善の象徴である-プラトン)
      ・芸術美の優位―芸術は理念の感性的表現である(ヘーゲル)
      ・美しさの形而上学(プロティノス)
                                など。
 

 さて、これまで「美」の概念について様々な見解に接してきましたが、私は結論的に云って、何が美しくさせているのか、「美の客観性」が美の存在や態様を決め、主観がそれを完成すると考えています。
 

 西欧中世時代の芸術は、ほとんどがキリスト教関連の美術で、それに美しさがあるのは、それが「神の美術」(=崇高)だからです★。

 つまり信仰に伴うものは総じて美であり、美はすべてその周辺にあると考えられています。とくにロマネスク美術はそのすべての信仰要素に美が凝縮されています。これまで申し上げてきたように、ロマネスク美術では不均衡、非対称性、比例配分の不具合つまりデフォルメなどもすべて美として認識されます。これらのものはすべて大きな意味で美として信仰の完成のためにその中に取り込まれていると見做して良いと思います。
 
 ここに掲載した写真の像は、所謂ロマネスク聖母子像として最も著名なものの一つで、美の要件である「対称性」が完成され、「崇高性」、「知性」が感じられ、愛とか母性などの情緒的表現からほど遠く、ロマネスクらしい完成度が如実に伺えます。


 ただ例外として、美の対極にある「醜」の概念がロマネスク美術では明確に存在し、キリスト教の「不善」の概念はすべて「醜」と見做され、大げさに表現されます。

 私は、ローゼンクランツの述べる醜の概念(例:幻想的な怪奇動物の柱頭彫り物)が、ロマネスク回廊においては美の概念(例:イエス昇天)と対置され、弁証法的に更なる崇高美に止揚されていると考えます。
 
2017.08.20

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写真1.ブックカバー(イスパニア・ロマネスク教会)


 いつの時代も、どんなところでも、本の装丁に関する熱心な愛好家が居るものです。
 特にイスパニアでは製本や装丁が極めて凝っていて、中世時代には皮表紙が用いられ、その装丁には豪華な細工が為されています。
 

 今思い出すと懐かしいですが、今から50年ほど前、私はマドリッドに商社の初代駐在員として8年ほどいたことがあります。
 駐在員事務所を開設するために初めに誰もがすることは、町の地図や地形を頭に入れることで、このために地図を片手にマドリッド中を歩き回って土地勘をまず養ったものです。
 ここに載せた最初の写真は、その頃Puerta del Sol広場を少し西の方に入った文具屋で買い求めた羊皮のブックカバーです。
 今やボロボロで辛うじて形骸を保っていますが未だに現役で、この表紙の教会は御覧のようにロマネスク様式なのです。
 なんか不思議な縁を感じています。
 

 
さて、掲題のLema氏は現在サンティアゴ・デ・コンポステラ大学の心理教育学部の図書館長をなさっている方で、同大学卒業後一つの分野として書物の製本・装丁の専門家として長年指導的な仕事をされてきた人だそうです。

イスパニアはローマやビザンチンの影響を受けているので、こういった分野ではかなり先端的な感覚を持っていて、これまで幾多の研究が為され、特に1012世紀頃には豪華な製本・装丁された書物も刊行されています。

当然部数は限定され、手稿本・写本などにその技術の粋が見られます。具体例を四つ下記に挙げておきましょう:







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写真2  左「コプト式表紙」、
    中央「浮彫された聖遺物箱表紙NYメトロポリタン美術館蔵)」
    右「12世紀アビニョンの聖ルフォ・ミサ集表紙(トルトサ大聖堂司教座備え)」




 問題はロマネスク時代のものはほとんど摩耗してしまっていて、オリジナル無残な形で残っているだけで、本の中味を見ることも十分な保護措置を加えねばできないほどの状態にあるそうです(この点がかの地では今問題になっています)。



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     写真3. 「12世紀木製表紙ベアト本(ヘロナ大聖堂宝物殿蔵)」
           中央の四角部分が皮、まわりは板
 
 論文著者のLema館長によると、製本・装丁技術の基本は«ビザンチン式もしくは祭壇式»といわれるもので、象牙に執政官用の浮彫が彫られたものが最も貴重なものだったそうです。


     論文出所:“ROMANICO”No.22 (AdR,2016.6月号)
          「Encuadernación en el Románico(ロマネスクの装丁)

 2017.07.05

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 フランスのレスカールは、大西洋側ピレネーの辺りで、

 西に進むと、サンティアゴ巡礼路のプエンテ・デ・ラ・レイナに

 合流していきます。


 この地のレスカール大聖堂は、ベネディクト様式の三廊式で、

 頭部の優れたところは、大司教Guido de Lonsの支援のものに

 進められたモザイクタイルの採用でしょう。

 時代はこの大聖堂の再建が決定された1120年以降のことです。



 モザイクタイルは元々ローマ世界に端を発する、

 絵画とは異なる形式で、

 芸術家は石、大理石または種々な色の粉ガラスを用いました。


 大理石や他の材料の表面を先ずざっと塗り、

 その後で小さな四角い板状のものを嵌め込みます。


 それらは先ず表面を整え、素描の事前準備をして

 本番作業に入りますが、

 この方法は絵の入った絨毯の制作手法と似ています。


 *先月に引き続き、スペイン・ロマネスク・アカデミー(日本)の提携先
  スペインのAmigos del Románicoから届いた、記念カレンダーから…(写真)

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 古今東西を問わず、このデザインは多用されてきました。



 この渦巻き模様は、「宇宙・自然・いのち」の象徴であり、


 生命力や躍動感を表現しているからこそ


 いつの時代も、多くの人が魅了されてきたのでしょう。




 この写真のような鉄格子は、ここパンプローナのサンタ・マリア大聖堂の回廊のほか、

 カルドナのサン・ビセンテ聖堂や、フランスのコンク大聖堂にもあります。


 またこの模様は、ロマネスクの柱頭でも散見されます。



 日本においては、古くは弥生時代の銅鐸、その後の時代の鏡や武具にも使われています。





 拙著『神の美術ーイスパニア・ロマネスクの世界』(2011年)の「象徴と寓意」の項でも


 リーグル著『美術様式論』を紹介する一筆を掲載しています。


 装飾模様の研究もまた奥深く楽しいものです。





*先月に引き続き、スペイン・ロマネスク・アカデミー(日本)の提携先
 スペインのAmigos del Románicoから届いた、記念カレンダーから…(写真)

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"Diurnal" Fernando I. Santiago de Compostela




"Diurnal" [フェルナンド一世とサンチャ王妃の祈禱書]



修道士・細密画家・書家 Frietoso (o Fructuoso)により、


1055年に書かれた詩編、讃歌、聖務日課。




フェルナンド一世 (1017-1065年)は、

カスティーリャ伯(1035-37年)、

のちカスティーリャ王(1037-65 在位)、

レオン王(1037-65年)。



王妃サンチャに促され、フェルナンド一世はレコンキスタを更に拡大した。


イスラムに占領された、レオン王国の数多くの都市を解放するために。


トレド、セビージャ、サラゴサなどが回復されるにつれ、王国の財も豊かになった。




フェルナンド一世と王妃サンチャの時代は、芸術が庇護され、


写本、細密画、聖遺物箱、典礼用品など制作が盛んとなった。



*先月に引き続き、スペイン・ロマネスク・アカデミー(日本)の提携先
スペインのAmigos del Románicoから届いた、記念カレンダーから…(写真)

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*先月に引き続き、スペイン・ロマネスク・アカデミー(日本)の提携先

  スペインのAmigos del Románicoから届いた、記念カレンダーから…(写真)



カタルーニャ地方で制作された数少ない香炉のひとつ。

七宝加工され、透かし彫も施されています。

向き合った一対の鳥は東方の伝統的様式です。

12世紀第二・四半期の作。

鋳銅製、金メッキ。

12,8 x 14 x 14 cm

国立カタルーニャ美術館(MNAC)蔵



Orfebrería
Cataluña [?], segundo cuarto del siglo XII
12,8 x 14 x 14 cm

Procedencia desconocida.

Fundición en cobre, y cobre repujado, calado,
cincelado y dorado, con aplicación de esmalte «champlevé»
XII
Figura animal
Motivo vegetal

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写真:(上) チェス盤(『Los manuscritos españoles-Historia ilustrada del libro español』より)
(下) チェス駒 (日経新聞2005.05.29より)


 スペインの初期中世時代、ロマネスク美術の時代区分ではプレロマネスク時代に、アストゥリアス王Alfonso II ( 760-842) “el Casto”(あだ名で、“純潔“を意味する)が作らせたという「迷宮=ラベリント図柄」と思しき木板がある。

 黒、赤、緑の点描に彩られた菱形模様が升目を形成して、正方形状が波紋を広げつつ拡大している。

 単純だが、それにしても長い時を経たものとは思えない斬新な魅力がある。



 どうみてもれっきとしたプレロマネスク美術時代のモサラベ様式である(イベリア半島にイスラム人が711年侵入した当初、イスラム統治地域に住むキリスト教徒が、イスパノ・モスレム美術、オメヤやコプトなどと初期キリスト教美術などを混交させ、イスラム風の独自の様式を創造した)。

 このような幾何学的なラベリント模様のモチーフが、既に8~9世紀頃にスペイン北端のアストゥリアスの地にまで及び、いわば格好いい粋な流行になっていたと見える。

 

 では一体この矩形の木板は単に壁飾りだったのだろうか。

 実はこれはチェス盤である。以前このブログでロマネスクの特徴をもつチェス駒を紹介したが(2009.05.05)、この場合はその台盤のようだ。

 升目escaques状になっているので頷ける。


 通常はこういう風に飾る場合は、板の所有者の名前が下の方に入れるのだが、この場合はない。


 どうせ対でないと実用的には用を為さぬものだから、前出のチェス駒の写真も載せておこう。




【お知らせ】

スペイン・ロマネスク・アカデミー(日本)では、

7月5日(金)から、講習会の申し込みを受け付け開始します。

http://arej.jimdo.com/


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