勝峰 昭の「神の美術」あれこれ。

キリスト教美術―スペイン・ロマネスクを中心に― AKIRA KATSUMINE

タグ:西ゴート

イスラムがイベリア半島に侵入して以来、回教徒が半島すべてを支配したことはありませんでした。

スペインのロマネスクがフランスのそれとは大きく違う要因のひとつとして、イスラム統治の影響について前々回(2022年6月12日)のブログで触れました。
 
ウマイヤ朝美術が... : 勝峰 昭の「神の美術」あれこれ。 (livedoor.blog)


 
北部山岳地帯に逃れたキリスト教徒たちは、イスラム侵攻直後にレコンキスタ(国土回復運動)に着手し、722年にアストゥリアス王朝が誕生しました。

795年にはピレネー一帯にカロリング朝によるイスパニア辺境領が創設され、その東側バルセロナを801年に奪還し、西側ではナバラ王国が816年に独立します。

したがってキリスト教文化が絶えることはありませんでした。

イスラム侵入から王国を守り抜き、芸術創造を続けて現在まで残された建造物があります。



 ◉オビエド市郊外プリマン地区の通称Santullanoと呼ばれ保存状態もいい格式高い聖堂です ↓

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          サン・フリアン・デ・ロス・プラドス教会


 

 ◉オビエド郊外ナランコ山を登り口にあるサン・マリア・デル・ナランコから200Mほど登ったところにある次の教会は、水害で損傷を受け9世紀建造の建物は三分の一ほどで、あとは12世紀に建てられたものです ↓

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    サン・ミゲル・デ・リーリョ教会




ロマネスク美術様式が定着する前の5〜11世紀初頭時代の様式をプレロマネスク美術ともいいます。
 
ビシゴード美術、アストゥリアス美術、モサラベ美術を包含しますが、本来はっきりと認知された固定概念ではありません。




アストゥリアスは近代スペインの起源的王国と考えられています。

スペインの国王の後継の王子のことをアストゥリアス公と今も呼んでいます。


(勝峰昭 執筆:2015年5月25日)


 
【お知らせ】

勝峰昭著『イスパニア・ロマネスク美術』、『神の美術―イスパニア・ロマネスクの世界』(光陽出版社)は刊行以来、
三省堂書店神保町本店の美術書コーナーでお取り扱いいただいてきましたが、
2022年5月新社屋建設のため移転縮小となることにより、今後はアマゾンだけでの取扱いとなります。


イスパニア・ロマネスク美術
勝峰 昭
光陽出版社
2008-08T


 






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FIN

(次回2022.07.12更新予定)

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      透し彫りの格子窓 (Santullano) 





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 南面壁の三連窓 (San Miguel de Lillo) 




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(管理人より)

勝峰昭の講演会「イスパニア・ロマネスク美術と私」咲耶会(大阪外国語大学同窓会東京支部)2008年開催】より一部抜粋して、何回かに分けてご紹介しています。今回は三回目です。

 

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 ここで皆さん、思考を西洋の中世へと飛んでいただきます。

 

西洋の中世という時代は5世紀から15世紀です。

 

5世紀といいますと日本では倭の時代です。

 

15世紀まで約1000年間あるわけです。

 

5世紀にはゲルマン民族がイスパニアに入り込んでトレドに都をつくった時代から、かの有名なイサベル女王がグラナダのイスラム王朝を倒す時代までになります。

 

この1000年間を仮に中世というのは、「仮」というのはいくつも説があるからです。

 

私はイスパニア・ロマネスク美術史的観点から、この説を採っています。

 

 

 

【管理人:注】

<西欧において中世の始まりはいつ頃と考えるか、歴史的ないしキリスト教史家などそれぞれの立場により意見が異なり、とくに時代を一定的に画定する積極的な意味はない。

イスパニアの場合、通説は711年のイスラムのイベリア半島侵略開始の頃を中世の始まりとしている。

しかし筆者は、イスパニアのプレロマネスク美術の始まりといえる西ゴート族によるビシゴード王国創設の基礎が固まった5世紀をイスパニア中世の始まりとした。

この書の全体の構成上、整合性をもつからである。>

 

(勝峰昭著 『イスパニア・ロマネスク美術』 光陽出版社、2008年より 抜粋)

 

 

 

 

では、中世という時代はどういう時代だったかと言いますと、私がこれからお話するロマネスクの時代は11世紀、12世紀で、中世時代の一部です。

 

この時代の夜は真っ暗闇です。

 

ペストが流行し、あるいはまた人々はほとんど文盲で極めて暗黒の時代というふうに言われます。

 

ところが事実はそうではありません。

 

この時代は各地にゲルマン民族が移動して定着し、後の王国形成の土台となる時期に当たります。

 

そして、社会には封建制度が確立します。

 この制度は階層的ヘラルキーを構成し、俗界では王を頂点とし、キリスト教では教皇・大司教と言う人達がトップを占めまして、その下に聖職者たちまた領主たちがおりまして、さらにその下に農民がいる。

そのように社会は重層的に形成されています。

 

その富の源泉は農産物、畜産物です。これがこの時代の王国の財政を支えました。

 

技術革新が進み、農具が非常に立派なものになり生産性があがります。

 

つまり枷が発明され、鋤や鍬に動物の肩甲骨をはめて耕作するということができるようになり、農業の生産性が飛躍的に上がったのです。

 

このため富が蓄積され、学問文芸が振興され美術が盛んになる。

 

そこにフランスのクルニューという大修道院から先ほど申し上げた巡礼路を通ってイスパニアにどんどんキリスト教が布教されていく。

 

キリスト教のプレゼンスが非常の大きい時代であると解釈できます。

 

暗く貧乏、病気で日常の生活にも事欠く、というイメージだけが一人歩きすると、中世の解釈は間違ってくる。

 

そうではなく、こういった前向きな面もあるのです。

両方が混在している時代です。

 

ただ我々には想像つかないくらいの真っ暗闇であったということです。

 

人々は暗さを怖れ、すがる何かを求める、そこに宗教なかんずくキリスト教の存在が浮かび上がってくるわけです。


 

 この写真はマドリードから約100Km北にあるペドラッサとうい村です。

 

これは中世の村そのものです。

 

レストランの上階から撮ったものです。


 柱は円柱でローマ属領時代に使われていたものです。

 

ゲルマン民族が入ってくる前までは、イスパニアはローマに属しています。

 

その時代につくられたローマの神々のための神殿は、西ゴート、ゲルマン民族になった後、神殿を壊されてしまいました。



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(つづく)

 

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